2011年9月19日月曜日

童話–支援するもの、されるもの

まだ、そう遠くはない昔、平和に暮らす村々がありました。
海に近いその村では、海からの恵みをたくさん受けて、それはそれは幸せに暮らしていました。

長い長い冬もようやく薄らぎ、春の兆しが少しずつみえてきたある日のことです。

いつものように、美味しいお昼ご飯をいただいた後、お父さんは港に戻り、お母さんは、夜の献立は何にしようかしらと考えていて、子供たちは、学校で卒業式に唄う歌の練習をしていたその時でした。

大きくて、長い、長い、地震があったのは。
そうして、その後、悪夢のような津波が襲ったのは。

学校の近くを流れる川が、底が見えてしまう程大きくひいていく様子をみて、先生たちは、顔が真っ青になりました。足ががくがくと震えました。

平和だった村々は、みるみるうちに黒い悪魔のような水にのみこまれてしまったのです。

この姿はテレパシーのような速さで、村々を超え、世界中に伝わりました。

世界中の人々は、この、突然牙を剥いた自然の姿に、残酷にのみこまれる村々の姿に、天を仰いで涙を流し、まるで自身がのみこまれてしまったかのようにとても苦しい気持ちになりました。涙ばかりが溢れて止まらなくなったのです。

夢と現の区別がつかなくなり、そうして、いつも心臓がどきどきするようになりました。

一方、のみこまれてしまった村々では、長い長い夜が明けた後、生き残った人々もたくさんいることが分かりました。

生き残った人々は、すべてが流されてしまった村の姿に呆然としましたが、残された力を振り絞って立ち上がりました。

もう一度、平和で美しい村を取り戻そうと。

大人たちは、ガレキをひとつずつ取り除き、子供たちは、ぐちゃぐちゃになってしまった教室で、早速かくれんぼを始めました。
笑いながら転げ回る子犬のような子供たちの姿をみて、大人たちも少しずつ元気を取り戻していきました。

そんな中、世界中からたくさんの「支援」が届きました。はじめは、毛布や水や食べ物など生き延びるために必要なもの、それから、子供たちへのランドセルやぬいぐるみなども届くようになりました。

はじめ、村の人々は単純に「ありがたいなあ、助かるなあ」と感謝していました。子供たちは「ありがとう」と届けてくれた人々へお礼の手紙をしたためました。

けれど、そのうちに妙なことに気づくようになりました。

まだ、舗装されていないぐちゃぐちゃの道を長い時間をかけて届けにくる人たちは、全員、とっても苦しそうなのです。

苦しそうに、ありったけのモノを担いでやってくるのです。

そうして、「ありがとう」と村の人々が受け取ると、ぱっと日が差したように笑顔になり、「こちらこそ、受け取ってくれてありがとうございます」と答えて、とてもうれしそうに帰ってゆくのです。

その幸せそうな後ろ姿を眺めていた村人の一人がつぶやきました。

「彼らも、ある意味、津波にあったんだろうなあ。心がずぶんと沈んでしまったんだろうなあ。そうして、俺たちにモノを届けることで、俺たちが受け取ることで、彼らの心の傷が癒されていくのかもしれないなあ。そういう意味じゃ、俺たちも彼らを『支援』しているのかもしれないなあ」

まだ、遠くはない、半年前から今にいたるまで、そうして、これからも。

気仙沼では、日本中から、世界中からの『思い』をひたすら受けているそうです。

自治体の機能すら失われてしまった中で、それでも新たな津波のように日本中から世界中から物資やメッセージが届き、「何度『ありがとう』を言えばいいのか」と疲れ果てるなか、気仙沼の一部では、「私たちが『ありがとう』と受け取ることで癒される方々がいらっしゃる」とひたすら受け取っているそうです。

支援の意味、思いやりの意味。

日々かみしめていきたいと、本当に思います。

2011年8月30日火曜日

マッツ先生恐るべし

背中の痛みがまた始まってしまいました…。

特に最近は左膝の痛み、関節が少しずれているような、いやな違和感、それに、今度は左肘の鈍い痛みに加え、ちょっとしたものを持ち上げるだけでも左腕がぴしりと痛むようになったのです。

しばらくは、気のせい、気のせいと気を紛らわしていたのですが、さすがにつらい。

と、いうわけで、ひさびさにマッツ先生の助けを借りることにしました。
(マッツ先生については、「まつはし整骨院」へ)

「お久しぶりです〜」
 ドアを少し開いて挨拶すると、変わらないスキンヘッドであったかく迎えてくれたマッツ先生。

「今日はどうされましたか?」

「なんか、震災疲れかもしれないんですが、最近また背中の痛みがはじまってしまって…」

と、マッツ先生に向かって言葉を紡ぐその先から、もうすでに背中の痛みはなくなっていたので(笑)、以前来たときみたいに、もう症状は消えているんですけどねと言葉を付け加えなければなりませんでした。
(前回のマッツ先生の施術についてはこちらを参照→「潜在意識を持たせたモン勝ち(笑)」(マッツdeRから))

「ちょっと私を向いて軽く足踏みしてもらっていいですか?」

言われるがままその場で手をふりながら足踏みをしてみせると、ふんふんとその様子をみて、おもむろに左手首を軽くつまみあげるようなことをして、それから、右手首もしたかな?そこらへんよく覚えていませんが、とにかく、また、痛みの症状がでている場所とはまったく異なる部位をちょいちょいと触るだけ(笑)

「はい、も一回足踏みしてもらっていいですか?どうですか?」

「ありゃ??左膝の違和感もなくなってる…」

施術を始めてわずか、2分のできごとでした(笑)

さすがにそれだけだとアレだよねと、その後もじっくりカラダの調節をしてくれました。

いつものように「一体ナニをしたんですか?」と尋ねると

「見た感じ、胸郭のうごきがにぶっていたみたいなんで、そこをちょこっと調整しました。でも、最初にきたときに比べたらカラダの流れはずっといいですよ、だから、ちょっとした施術ですぐに痛みも治るんだと思いますよ」

やっぱり、おそるべし、マッツ先生。

マイアヒラサワに会いにいってきました

先週末の日曜日の夜、地下にある小さなカフェ、「モーツアルト」でマイアヒラサワのライブがありました。

今、思い返すと、偶然と偶然が織りなす魔法の世界に迷い込んでしまったかのような、手にとったグラスも、腰かけた椅子も、ふわりと消えてしまうような、なんだか夢のようなライブでした。



2011年8月27日土曜日

明日マイアヒラサワに会いにいきます

友人に、感動するよと教えてもらった『九州新幹線』のCMにかかっていた曲。
(詳しくは、「レンスウチョウ:祝!九州新幹線全線開通CM」へ)

一体誰が唄っているんだろうと気にはなってました。

 そんなある日、会社ですれ違った同僚から、
「そういえばmimaさんって、九州新幹線のCM気に入ってましたよね?」
とふいに尋ねられたのです。
なんだか条件反射のように、「うん」と答えると、
「実は、そのCMで唄っていたヒトが仙台に来るんですよ。今から予約しようと思っているんですけど、よかったら旦那さんの分と一緒に予約しておきましょうか?」
 と。

スケジュールの確認もしないまま、これまた条件反射のようにお願いと答え、ようやくその後に、で、その人って何て名前なんだろうと思ったほど、私はまったくマイアヒラサワのことを知りませんでした。

ただ、あのCMと彼女の声と唄があまりにも合っていて、九州新幹線のことなのに、まるで、今の東北のことも応援してくれているかのようで、楽しくて、そして涙もでて、そうして自然に口からこぼれるほど、踊ってしまいたくなるほど、私のカラダに溶け込んでいたので、うれしくてうれしくて、早速相方さんにライブのことを伝えたのです。

それから、彼女が 日本人とスウェーデン人とのハーフだということや、仙台にも住んだことがあるということなど、少しずつ知っていきました。

そして、1年くらい前、宮城の丸森と石巻というところで、実は相方さんは 彼女と会っていたということも知りました。相方さんはびっくりしながらも、丸森では蚕をみたり、石巻では海苔の養殖についての話を聞いたりしたんだよと教えてくれました。
(詳しくは、「写真ですか?はい、好きです」へ)

そのツアーは、仙台以外の宮城について、しかも、土や海のにおいがプンプンする一次産業や土着で伝わる民話(しかも話す人の方言がきつくて、日本人でもほとんど理解できない、笑)などを体感する、ある意味ちょっとマニアックなものでした。

 日本人からの参加者も少ない中、宮城の、土や、海や、その土地にずっと住み続けている人々の暮らしや文化にも目を向けていたんだなと思うと、なんだかすごくありがたくて、そうして、涙がこぼれそうになりました。

明日。

マイアヒラサワのライブに行ってきます。

2011年6月4日土曜日

原発避難区域の家畜の行く末

涙が流れて止まりません。

玄侑宗久さんの公式サイト

人間さえ助かればいいんでしょうか。

福島のペットたち

猫好きな方、犬好きな方、そして、福島で、飼い主さんと離ればなれになってしまったペットたちを何とかしたいと思って下さる方、是非、下記のブログをチェックしてください。

↓↓↓ 

( 福島の猫シェルターでボランティアをするにいたったいきさつなど書かれています)

 (福島県田村市にあるシェルターで活動されている団体さんの活動ブログです)

拡散も大歓迎です。

よろしくお願いします。

2011年5月5日木曜日

目覚め

じゃがいも

からし菜(多分)


小松菜(多分…)

2011年4月23日土曜日

祝!九州新幹線全線開通CM



なんだろう、なんでだろう、んもう、涙がでてきてしょうがないです

あぁ、生まれ育った九州だあと、たまらなくいとしくなりました

人っていいな、人が集まって、楽しい気持ちやウレシイ気持ちをカラダで表すと、
こんなにも感動するんだな、見ている人たちも踊りたくなるんだなって、思いました

九州、沖縄から、四国、本州、そして東北、北海道まで、こんな風に、つないで、つないで、日本が家族みたいになって、笑い合えるようになったら、確かに絶対楽しくなると思います。

それまで、ここ宮城で、しっかり地に足つけて、両手をうんと広げて、踏ん張っていきます!

このCMを教えてくれたFさん!
本当に、本当に、ありがとう!!!

原発を考える—「ナターシャ・グジー」



先日、上司から紹介された「ナターシャ・グジー」の唄。

—繰り返す過ちのそのたび
人はただ青い空の青さを知る—

ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリ、そして、フクシマ…。




2011年4月9日土曜日

「原発」を考える—「少女の声」と「Odetta sings "Glory Halleluja"」




先日アップした「福島からの声」についてコメントくれたyukiさん。
その中で紹介してくれたOdettaの唄。

昔、原発に関するある講演会で、泣きながら大人に訴えた中学生の女の子の言葉を、この唄を聞きながら読み返しました。


話が一通り終わったので、私が質問はありませんかというと、中学二年の女の子が泣きながら手を挙げて、こういうことを言いました。 

 「今夜この会場に集まっている大人たちは、大ウソつきのええかっこしばっかりだ。私はその顔を見に来たんだ。どんな顔をして来てい るのかと。今の大人たち、特にここにいる大人たちは農薬問題、ゴルフ場問題、原発問題、何かと言えば子どもたちのためにと言って、運動するふりばかりして いる。私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで、二四時間被曝している。原子力発電所の周辺、イギリスのセラフィールドで白血病の子どもが生まれる確率が高 いというのは、本を読んで知っている。私も女の子です。年頃になったら結婚もするでしょう。私、子ども生んでも大丈夫なんですか?」と、泣きながら三百人の大人たちに聞いているのです。でも、誰も答えてあげられない。

 「原発がそんなに大変なものなら、今頃でなくて、なぜ最初に造るときに一生懸命反対してくれなかったのか。まして、ここに来ている大人たちは、二号機も造らせたじゃないのか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ」と。ちょうど、泊原発の二号機が試運転に入った時だったんです。

 「何で、今になってこういう集会しているのか分からない。私が大人で子どもがいたら、命懸けで体を張ってでも原発を止めている」と言う。

 「二基目が出来て、今までの倍私は放射能を浴びている。でも私は北海道から逃げない」って、泣きながら訴えました。

 私が「そういう悩みをお母さんや先生に話したことがあるの」と聞きましたら、「この会場には先生やお母さんも来ている、でも、話したことはない」と言います。「女の子同志ではいつもその話をしている。結婚もできない、子どもも産めない」って。

(「原発がどんなものか知ってほしい著:平井憲夫からの抜粋)


この文章は1996年に書かれていて、この講演会はもっと前にあったと思うので、この泣きじゃくりながら訴えた女の子も30歳を超えていると思います。

どうか、恋をして、結婚して、元気な赤ちゃんを生んでてほしい…。
そして、どうか、変わらずに声をあげててほしい。

私が大人で子どもがいたら、命懸けで体を張ってでも原発を止めている

そういえば。

2008年??の夏に行ったUAのライブでも、同じことを叫んでた。
歌いながら、同じことをUAは、叫んでいた。

2011年4月6日水曜日

「津波から生き延びた宮城農業高校の牛」—その続き

畜産学を学び、今の日本の畜産システムに反発する形で日本を飛び出したとき、私は27歳でした。

南太平洋の島国で、ひたすら、放牧牛と熱帯牧草と土壌の試験研究をして、そうして、日本に帰ってきました。

あれから、9年。

不思議な巡り合わせと、ほんの少しの勇気で、あの大災害で牛を逃がした先生と連絡がとれ、実際に当時の話を聞くことができました。

牛好きは、牛好きを呼ぶのでしょうか。

先生と会えたと同時に、偶然が必然となるような巡り合わせで、宮城農業高校の卒業生で、今、被災地への支援を精力的に行っている、パワフルな娘にも出会うことができました。

マイブログリストにも登録したので、チェックして下さい。すごく魅力的な女性です。

彼女は、27歳。

私が日本を飛び出した年で、彼女は、地元で、農業と向き合っていて、地に足ついて生きていて、あっぱれなほどにゲラゲラと気持ちよく笑いながら話を進めてくれて、あぁ素敵な娘だなと、ココロから思いました。

なんだろう。

今回の災害で、今、被災地も、そうでない所も、ものすごいスピードで、人と人とがネットワークを構築していっているような気がしているのです。

それこそ、ありんこの触角みたいに、互いに本能の嗅覚を使って、言葉じゃない、なんだろう、それこそ、「あ、うん」の感性、多分、テレパシーと呼ばれるもの、そういった究極の感性を、今、急速に進化させていってるような気がするんです。

それが、いい、とか、悪い、とか、そういう次元の話でなく、多分、生き残るため、この災害から立ち上がる為、それだけの為に。

そのために、今、私は、宮農の先生と出会い、宮農出身の彼女に出会ったんだと思います。

前回のブログでも紹介した、生き残った牛たち。

先生たちが命をかけて、なぜ、家畜である牛を救おうとしたのか。

実際にお会いした時、この話を小さな絵本にしたいと申し出ると、先生は、こう答えました。

「その絵本には、続きがあります」

え?と思わず、その先生の顔をのぞきこみました。

先生は、まっすぐに私の目を見て、言葉を続けました。

「この続きこそが、本当に私が求めていることなんです。

津波で何もかもがなくなってしまったからこそ、今、奇跡を生み出したいんです」

2011年4月5日火曜日

「津波から生き延びた宮城農業高校の牛」—新聞で掲載!

先日にアップした、あの、牛の動画。

この奇跡が読売新聞でも掲載されています。
↓↓↓

流された乳牛14頭、宮城農高に帰ってきた!

(2011年4月5日14時01分 読売新聞)

しかし、この奇跡は、思いもよらない方向へ向かうのです。

↓↓
(詳細は、こちら、16PKさんのブログへ)


2011年4月4日月曜日

福島からの声

私には、この声を伝えることしかできません。

原発
(キューリ歩人のかっぱ巻き〜HARD→HEART〜のブログから)

今の福島県の叫びです。泣きながら、叫んでいます。

前回掲載したサイトでも、同じことが、叫ばれてました。泣きながら、叫ばれてました。
でも、私に、届かなかった。

でも、今は、しっかりと届いています。胸に、痛いほどに。

原発は、そこに住む人の、特に女性のココロをズタズタにします。
こちらの方が、深刻だと思います。

原発から100キロ圏内に住む私も、今回の事故で、実は、子供を生むということを、女の喜びを捨てようと、あきらめようと、少し思っています。

そう思って、少しだけ涙をこぼしています。

原発は、本当に核の平和利用なんでしょうか。

本当に、クリーンなエネルギーなんでしょうか。

では、なぜ、原発のある地域では、事故が起るたびに、血の涙が流れるんでしょうか。
いわれのない差別が生まれるんでしょうか。争いが生まれるんでしょうか。

もしかしたら、私たちは、とんでもない過ちを犯しているんじゃないでしょうか。

無知という名の過ちを。


2011年4月2日土曜日

一体、原発ってナニ?

ショックでした。

↓↓↓
二十年間、原子力発電所の現場で働いていた方からの必死のメッセージ

このメッセージ、阪神淡路大震災の翌年、1996年のもの。

今から、15年前。

すでに、今の福島での原発事故を、予測、していて、必死で、それこそ、命をかけて、
言葉を投げていたのに。

私は、まったく、知らなかった。

呆然としました。

2011年3月27日日曜日

今、放射能より怖いもの— (2)

(前回の続き)

今、私たちに直面している問題は、生活排水だけではありません。
震災後、大量に発生したごみ処理も、また、パンク状態なんです。
↓↓↓
(河北新報より)

工場長も市の環境局も、「できるだけ、ごみを減らしてください!」と呼びかけています。

でも、その声は、今、どれだけの人に届いているのでしょう…。

河北新報の記事にも記載されていますが、震災の影響で、ごみの排出量は昨年同時期の1.5倍とのこと。

この数字は何を意味するのでしょうか。

地震や津波で、壊れたもの、使えなくなったものが大量に発生したから…?

それも、絶対にあると思います。けれど、実感として、それと同時に、加工食品(インスタントラーメン、パン、スナック類 等)からのごみも、通常より多いのではないかと思うんです。

長い列を作って、買い物をして、大量の食料品を両手に下げていく人の袋からは、大量のインスタントラーメンの容器、ヤマ◯キパンの袋が見え隠れしてます。

全体的に、「食べられるだけでもありがたい」「贅沢いう状況じゃない」という風潮ですが、そもそも、そのことと、使い捨て食品の大量消費とは、実感として、つながりがないように感じます。

して、これは何も被災地だけに限ったことでもないんじゃないか、とも思うのです。

これからの生活を考えていく上で、この、「ごみ問題」をヒントにしていくのもいいのではないでしょうか?

ちなみに、我が家は、基本、生ゴミはすべて、堆肥処理、加工食品は「乾物」以外はほとんど購入せず、たまに買っていた魚も、この震災で探すことをあきらめました。納豆、豆腐のパックは、育苗用に使っているので、いわゆる「ごみ」は、ごみ袋「特小」で週に一回出すくらいです。

初めは、ちょいとめんどくさいけど、慣れたら、全然平気です。

特に、生ゴミ堆肥化は、アパートのベランダでも余裕でできるし、まず、生ゴミからの臭いから解消されると思うので、今、本当にオススメです。それで、プランター菜園とかすると、野菜も手に入り、一挙両得です。

今、放射能より怖いもの— (1)

世間では、「ゲンパツ」、「ホウシャセン」が、今、最も怖いもの、恐ろしいものと震えているようです。

福島原発から100キロ圏内に住む私。

今、この地域に差し迫っている恐怖に比べたら、こんな単語なんて、鼻くそみたいなもんです。

その、差し迫っている恐怖とは…。

ウンチが、逆流するかもっっっ!!!
↓↓↓
(宮城県WEBサイト、下水道災害対策本部から)

怖い…怖すぎる…涙。

現在、ネットで入手できる情報↓↓↓
(仙台市WEBサイト/ライフライン情報)

仙台市からの生活排水を処理している施設の1つ、仙台市南蒲生浄化センターの被害状況
↓↓↓
(詳細はこちら)

このサイトに掲載されている写真を見ると、あまりに無惨な様子に言葉を失います。

お風呂なんて、我慢できます。
食器洗いも、そもそも、洗剤使用していないので、楽勝です。
洗濯量も、同じ下着を何日もはき続けることに、何の躊躇もなくなったので(笑)、大丈夫、ちょろいもんです。

ただ…

排泄行為に関してだけは、我が家は何の対策もしていません。

夫も私も、便秘知らずの大量ウンチを毎日トイレに投入…。下水道に相当の負担をかけているはずです。

私たちは、排泄行為すら、何らかの手段を考えないといけないのでしょうか…。

排泄に関しては、カラダの健康や、保健衛生にも関わることですし、避難所では、トイレを我慢してしまって、膀胱炎になってしまった方もいるようです。あるいは、トイレに行くのをできるだけ控えようと、水を飲まない方も出てきているようです。

今の情報量では、正直、分からないです。

だから、来週にでも、直接、仙台の水道局に確認しようと思っています。

この時期だからこそ、きちんとした情報を入手して、
いたずらに不安→いたずらに生活行動を制限→健康に影響
というスパイラルに巻き込まれないよう、冷静に対処していきたいと思っています。

2011年3月26日土曜日

「津波から生き延びた宮城農業高校の牛」—動画入手!!



16PKさんのブログに投稿されている「童話のような、本当の話」
↓↓↓
(「救いたかった命」と「救われた命」)

恐らく、その後の動画です。

そこには、まるで、インドやフィジーみたいに、道路を悠々と歩く牛の姿が!!

良かった…。生き延びたんだね!!
思わず、画面に向かって話しかけてました(笑)

今は、先生たちと楽しく暮らしているそうです。

近々、この先生にお話を伺えたら…と思ってます。

あ〜〜、久しぶりに「泣き笑い」をしちゃいました。

2011年3月23日水曜日

被災地以外の『買い占め』に唖然…

今、日本中で行われているらしい「買い占め」。

被災地ならまだしも、被災地でもなんでもない地域にも「買い占め」が発生していることに、

「なんで???」

と突っ込まずにはいられません。

被災地じゃないでしょ??

食べるのに困ってないんでしょう??

ライフラインは整っているんでしょう???


素朴な疑問と、正直、悲しい気持ちでいっぱいになり、まずは、友人を中心に

「周りで『買い占め』している人がいたらやめるように呼びかけてほしい」

という内容のメールを送信しました。

すると、

俺も含め、周りでは『買い占め』している人はいないけど、見つけたらみっちりお仕置きしておきます!」

など、私の小さなケータイに大きな思いが沢山届きました。

その中で、

「mi-ma、そして、旦那さんのメッセージを私が働いている職場のブログにもアップするよ!」

という思いがけない申し出もありました。
↓↓↓
(友人の働くNPO法人「大地の郷」のブログ)

仙台の町は、「地震って夢だった??」とほっぺたをつねりたくなるくらい、何事もなかったかのように佇んでいます。その中を、人々もまた、何事もなかったかのように歩いています。笑いながら、おしゃべりしながら、仙台を歩いています。

でも、この、歩いている人たちは、全員、一人残らず、あの、死の恐怖を感じました。

一人残らず、死を覚悟するくらいの恐怖を3月11日の午後に感じました。

その経験に耐えて、耐えようと踏んばりながら、今日いちにちを、一日として、生きていっています。


沿岸の地域では、まだ、安否すら確認できていない人がいます。
恐怖どころか、死に至ってしまった人が、私のすぐそばで、たくさん、たくさん、います。

だから、お願いです。

東日本大震災が、今や、日本中を不安に貶めていることは、十分に理解できます。

でも。

ほんのちょっとだけ、冷静に立ち返って、本当に、今の自分にとって必要なコトやモノは何か、今、手に取っているものが明日、本当に必要な物なのかどうか、考えてみて下さい。

どうか、どうか、よろしくお願いします。

2011年3月22日火曜日

水、ガス、電気の節約法ー「癒しの足湯」

プロパンガスの次の補給がいつになるか分からないので、風呂炊きができない。

でも、自動車ではなく、自転車と歩きが日常になった今、疲れた筋肉と汚れた体をお湯でほぐしたい欲求は深まるばかり…。しかも、この間の寒さに比べたら確実に春に近づいているものの、やっぱ、寒いし…。ううぅぅ、つかりたい。。

モンモンと膝をかかえてうずくまっていると、夫が言いました。

「足湯しよっか」

「お!!!」

早速、灯油ストーブで湧かしてあったお湯を洗面器にそそぎ、水で温度を調節します。

間接照明に照らされて、両足がやっと入る洗面器からは白い湯気がたちのぼり、気分も急上昇。

いそいそと靴下をぬいでいると、「ちょっと待ってて」と夫。

洗面器にラベンダーのアロマオイルを数滴たらしてくれました。

この極上足湯につかった時の感想…。言葉に言い表せません…。

2011年3月20日日曜日

災害地から希望のカフェ-「びすた〜り」

昨日、今日と、仙台の町なかを、夫と一緒に歩き回りました。

長町(ながまち)という所に、味のある古い商店街があるのですが、ここにも地震の爪痕が深く残っていました。
道路が陥没していたり、街路樹が斜めに傾いてしまっていたり、古いお家の壁がはがれおちていたり、ガラスが割れ落ちていたりしていて、あぁ…と声を出さずにいられないほどでした。

「当時はもっとひどかったんですよ、道路がぐにゃりと上に突き出ていて、まるでバイクのジャンプ台みたいになってたんです。1mくらい陥没していた場所もあったしね。びっくりするほど急ピッチで復旧作業は進んでいるものの…、もう、資材がないのかな…工事がここ2、3日進んでいないんですよ。」

行きつけのお茶屋さんが早速営業を開始していて、若旦那があったかい緑茶をもてなしながら、あの大地震後の様子を話してくれます。

「もう、ガソリンなくなって、今は自転車で通っているんですけどね、でも、私、31歳からこの店舗に立っているんですけど、こんなに活気ある長町を見たことないんですよ、ああ、こんなに長町には人がいたんだって

ガソリンが手に入らなくなった今、人々は歩いたり、自転車に乗ったりして、近所の商店街に物資を求め、それが、ゴーストタウン化してしまった古い商店街を活気づけているのです。

なんだか、ほんわかした気持ちになって、そのまま歩いていくと、なんと、これまた行きつけのカフェ、「びすた〜り」も営業を開始していました。

(びすた〜りのWEBサイトはこちらをクリック)

「皆さん大変な思いをされているんですから、せめて、ほっと安らげる場所を早く提供したくて」

地震でぐちゃぐちゃになったであろう店内は、一部壁がはがれ落ちているところを除けば、まるで、地震なんて、災害なんてなかったかのよう。

こうしている間にも、光にあふれる店内には、どんどんお客さんが入ってきます。

しばしの癒しと安らぎを求めて。

そして、頼んだ「きんかんハニーティ」の美味しかったこと!

少しずつ、少しずつ、確実に、仙台は復興してきています。

2011年3月19日土曜日

地震から一週間経ちました-今の自粛ムードについて

まだまだ余震が続く仙台。さっきも震度3の揺れがありました。

最近、オバカなことを言ったり、下世話な話をして皆でゲラゲラ笑う回数が増えたように思います。それは、明らかに地震前と比べても多いような気がします。

多分、地震発生して、体力も限界にきてて、ココロもズブズブ沈んでいきそうで、そんな状況だからこそ、オバカなこと言って笑って、元気というかエネルギーを取り戻していってる気がします。

一方、テレビや、特にネット上では、著名人のちょっとした発言や態度に対して、「被災地の方々に対して失礼です!!」とか、「こんな状況の中不謹慎だ!!」とか、怒りを露にしている方々が多いようです。
↓↓↓
(たとえばこちら、幕内さんのブログです)

多分…というか、ほとんどの人、少なくとも正常な精神を保っている被災地の人々は、そんなコメントなんて気にしていませんよ。と、いうか、今の生活でイッパイイッパイで、気にする程のココロの余裕なんて、ないです。

今の、妙な自粛ムード。

なんだか、ちょっと、それすら面白く、こちらでネタにして笑っています。ごめんなさい、笑。

2011年3月17日木曜日

仙台の朝-地震から7日目

地震から明日で一週間になろうとしている。

今朝の仙台は、キーボードを打つ手が震えるほどに寒い。

灯油が使えないこと、ガスを使ってお湯を気軽にだせないことが、とにかくツライ…。

できるだけ、被災地のポジティブなことをこのブログで書こう!

そう思う気持ちが、昨日から完全に萎えてしまっている。

日が経つにつれ、悲惨な実態が露になってくる。

お互いを思いやるココロをもっているはずの日本人も、あまりの大災害に、パニックになりはじめている。

避難所で犯罪が起き始めている…。

買い占めが起き始めている…。

「我」がむき出しになって、ココロにひそむ「鬼」が現れ始めている…。

被爆とか、今、そんなことはどうでもいい。まだ、放射線レベルはCTスキャン程度なんだから。

そんなこととより、この、現れ始めた「鬼」をお互いに消し合うことが先決だ。

そうじゃないと、鬼が鬼を食いちぎることになってしまう。

それこそ、血の色した地獄絵図になってしまう。

2011年3月16日水曜日

仙台の朝-地震から6日目

夜明け前、又、余震があった。

布団から顔をだすと、寒い。

真冬に戻ったように、寒い。

カーテンをあけると、車に雪がつもっている。
今日の仙台は真冬並みになるそうで、風も強く、吹雪くかもしれないとのこと。

…なんで、こんな時に…。

今日から会社に行こうと思っていたけれど、通勤手段が確保できないため、上司に連絡をいれる。

そういえば、地震直後、公園まで避難したときもそうだった。

寒くて、寒くて、こういうときに限って目の前が真っ白になるくらいの雪が舞っていた。

灯油もない中、どうやって過ごせばいいんだろう…。

途方に暮れる6日目の朝だ。

2011年3月15日火曜日

東北広域震災NGOセンター

通常は国際協力NGOとして途上国への支援活動をしているIVY (国際ボランティアセンター山形)。

今回の震災では「国内への支援」として、津波の被害があった名取市を中心に活動を始めたようです。

↓↓↓
(詳しい内容はこちら)

今、現場からみて一番必要としているのは、こういったあったかい食事、あったかく眠れる場所。

IVYさん、やるな〜〜!!NGOは動きが速い!!!

私もあったかい気持ちになりました。


仙台の朝-地震から5日目

明け方、また、地震で目が覚めた。

勤務先の学校で避難生活を送っている方々のお世話のため、パートナーは家に戻らないままだ。

ひとりぽっちの中での余震は、カラダにというより、ココロにつらい。

めっきり冷え込んだ夜明け前、えいと気合いを入れてご飯を炊き始める。みそ汁を作り始める。
いたみ始めたキャベツを丁寧に切る。

頭上では、もう、自衛隊のヘリコプターのプロペラ音がなっている。今日はどこへ救助に向かうのか。向かえるのか。

ガスも電気もいつまでもつか分からない。灯油も使うのを我慢して、服を重ねる。

親戚が髪を洗わせてくれとやってきたので、夕べは4日ぶりにお風呂をたいた。

気持ちいいね、さっぱりするねとお互いにつるつるの顔で笑い合った。

鍋がコトコトいいだした。もうすぐ朝ご飯ができあがる。

パートナーも、もうすぐ自転車で戻ってくるだろう。
ガソリンが手に入らない今、彼の愛車は駐車場に置いたままだ。

…。

ここまで書いて、読み返すと、何だか、戦争時代の小説みたい、笑。

生活は不便で、怖いけど、早くこんな生活終わらせたいんだけど、でも、皆で支え合って、ちょっとしたことにも幸せを感じることができて、なんか、もう、このままでもいいような気がする私もいます。

2011年3月14日月曜日

今回の地震について海外メディアが報じたこと

まだまだ続く余震。

緊急地震速報の軽やかな音楽がラジオの途中で入るたびに、心臓が止まりそうになる。

ラジオやネットからは、壊滅的な情報ばかりが流れている。収まらない火災、原子炉での水素爆発。

もう、いやだ…。

ラジオのスイッチを切り、ネットの電源も切ろうとしたとき、海外メディアが報じた記事が目に入った。
↓↓↓
ベトナムのメディアが報じた記事

皆、ものすごく怖い思いをしたはずなのに、物資がなくて、すごく困っているはずなのに、けんかも略奪行為もなく、冷静に秩序だって行動している姿にメディアは驚きと称賛をもって記事にしていた。

確かに、11日の地震が起きてから今まで、住民が興奮状態になった様子は一度も見なかった。

災害に加え、信号機も「死んでいた」のに、そんな状況の中、車同士も殆どパニックに陥っていなかった。

限定された生活用品を売る商店やスーパーマーケットにも、ガソリンスタンドにも、皆、長蛇の列に並んで、じっと待っていた。目の前で「売り切れ」てしまっても、残念だね、しょうがないねと笑いながら家に帰っていた。

今では数少ない公衆電話にも、バス停にも、じっと、ただ、じっと列に並んで待っていた。そこに、割り込んでいく人の姿は、少なくとも私が見る限りでは、一人もいなかった。

「我」を強調する人は誰一人いなかった。

運良く助かった人たちは、自分の運のよさを、他者への救済にあてていた。

食べ物を持つ人は、持たない人に譲っていた。

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悲惨な映像や報道も事実だ。まぎれもない、今の東北地方の現状。
でも、その悲惨な状況の中で、私たちはお互いに譲り合って、助け合って生きていってる。

生きていこうとしてる。

衝撃的な映像や情報ばかりを垂れ流しにするんではなくって、そうやって日本中を悲しみと絶望に突き落とすんじゃなくって、もっと、そういう、私たち日本人の誇るべき姿を、その教育や文化の高さを、今、伝えたい。

今だからこそ、伝えたい。

2011年3月13日日曜日

生きています!!

東北地区から関東まで襲った巨大地震。

宮城県、仙台市では震度7を記録しましたが、幸運なことに私の自宅は、水道、ガス、そして、今は電気も復旧、こうしてネットを使える状態です。

ご心配をおかけしましたが、私も私の家族も皆無事です。

色々な方々に助けられ、「生きている、そのことが、こんなに貴重でありがたい」とお腹の底から実感しています。

テレビや新聞の報道では壊滅的な映像しか流れていませんが、少なくとも、私の周りは、皆笑顔で子供たちもかけまわって遊んでいます。

明日からはぐちゃぐちゃになった会社の復旧作業と、被災された方々へのお手伝いをしていきたいと思います。

心配してくれている皆さんへ心からの愛と感謝をこめて

mi-ma

追記:通信状態がひどく限定的となっています。落ち着いたらメールや電話をいただいた方に連絡をしますので、どうぞしばらくお待ちください。

2011年3月7日月曜日

マリールイズさんの講演会-2.かみさまは、本当に、いるのかもしれない


ルワンダ内戦による難民キャンプでの地獄のような日々から、日本への避難、そして、今に至るまで、マリールイズさんは、それこそ、「聖書」や「ヨギ伝」にでてきそうな「奇跡」に何度も何度も命を救われます。

すべてにおいて、まるで、かみさまが仕向けたようにしか思えない展開。

まず、それは内戦前から既に始まっています。

マリールイズさんは、当時ルワンダで勤務していた学校に、「たまたま」福島出身の青年海外協力隊が派遣されたことが縁で来日、福島で8ヶ月程度の研修を行います。

「このときにね、80歳のおばあちゃんのいる家にホームステイさせていただくんだけど、そのおばあちゃんがね、それは、厳しく私に日本語を教えてくれてね…。」

しかし、この「厳しいおばあちゃん」からの日本語特訓が、後に彼女の命を救うことになります。

そして、日本での研修が終わり、ルワンダへ帰国。

その後まもなく内戦が勃発、マリールイズ一家も避難のために家を後にします。

「そのとき、どうしてだか、分からないんだけど、たまたま手に取ったハンドバックの中にね、身分証明書は入ってなくて、代わりに、本当ならば空港で没収されるはずのパスポート、そして、日本語とフランス語の辞書が入っていたのよ…。」

もし、身分証明書が入っていたとしたら、「ツチ族」である彼女は間違いなく殺されていたし、もし、パスポートが通常通り空港で没収されていたとしたら、日本へ来ることそのものが不可能だったといいます。

そして、「たまたま」入っていた辞書と、日本での研修で学んだ日本語、そして、日本のホストファミリーからの愛が、螺旋のように奇跡をうみだしていきます。

ルワンダで内戦が勃発したというニュースをみたホストファミリーは、心配のあまり何度もマリールイズさん宅に電話をよこしたそうです。

「1時間ごとに電話をくれたそうだけど、電話をとることができたのは、最初の2日だけ。3日目からは、電話も通じなくなっていました。『もう、ルイズたちは生きていないだろう』と思われていた。

だから、せめて、『私たちは生きています』ということを伝えたかったの。難民キャンプには1カ所だけ太陽光発電の衛星通信があって、そこから日本にファックスを送ろうと思って、おばあちゃんから教わったひらがなで、『わたしたちは、みんな、げんきです、いきています』そして、最後に『たすけてください』と送ったの」

そして、「たまたま」マリールイズさんの後ろに並んでいたのが、「たまたまその日に」難民キャンプでの医療活動にやってきた日本人医師。

マリールイズさんの書くファックスを見て、日本語で話しかけます。

「私たちの通訳になってくれませんか?」

そして、「たまたま」ハンドバックに入っていた辞書の出番がやってくるのです。

地獄のような難民キャンプで、給料をもらい、生きながらえることができるようになるのです。

その上、この医師たちも衛星通信をもっていたので、マリールイズさんは毎日のように日本と連絡をとれるようになります。

その間、福島でも「ルイズ一家を支える会」が立ち上がり、マリールイズ一家を助けるための手続きが進められていきます。

福島を中心に全国からマリールイズさんを日本に呼ぶための資金が集められて、そうして、無事に皆に迎えられて日本へ降り立つことができるのです。

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もし、ここにある「たまたま」が1つでもなかったら、間違いなく、マリールイズさんは、もう、この世にはいなかったと彼女は断言します。

奇跡が次の奇跡をうみ、彼女は、今、日本で、私の目の前で、講演をしている。
そうして、講演終わった後も、私の隣で談笑している。屈託ない笑顔で私に話しかける。

私の現実と彼女の現実がつながり合い、そうして、彼女の経験が、今の活動が、私の現実となってとけ込んでいく。

私の中に、ルワンダの歴史と現実と未来が、彼女の歴史と現実と未来が、言葉も文化も超えてとけ込んでいく。

かみさまは、多分、昔話でもなんでもなく、時々、今でもこんな風に、粋に奇跡の人を見いだしては、私たちに伝え続けているのかもしれない。

生きることについて。




参照:「空を見上げて」
   
(著)カンベンガ・マリールイズ

2011年3月6日日曜日

マリールイズさんの講演会-1.今のルワンダ、これからのルワンダ


2月26日、雪の積もる米沢で「マリールイズさんの講演会」がありました。



マリールイズさんは、ルワンダの人。

あの、痛ましいジェノサイドが起こった悲劇の国の人。

(ルワンダの歴史については、こちらをクリック→「Wikipedia:ルワンダ虐殺」)

そして、福島県で活動を行う「NPO法人 ルワンダの教育を考える会」の理事長。



正直、だから、その虐殺について、悲劇について、胸に痛いダークなお話になるのかと思っていました。


「皆さんは、ルワンダって聞いて、あ〜、あの、民族同士で大量虐殺のあった国だなって、多分、それしか思い浮かばないのではないでしょうか?」

…ぎく。その通りです…。

「確かに、それは、事実です。でも、世界はその事実のみを報道し、ルワンダ人は野蛮な国だと断定します。でも、そのジェノサイドが起ってしまった背景について、歴史について、皆さんはどれだけのことを知っていますか?

ツチ族とフツ族というのは、当時植民地支配をしていたベルギー人が、政治的意図をもって、もともと1つの民族だったルワンダ人を無理矢理分け隔てたということをどれだけの人が知っているでしょうか?」

…え????だって、新聞では、ツチ族とフツ族は全く別の民族で言葉も違ってて、肌の色も違うって、宗教も違うって書いてあったような…

「言葉も一緒、肌の色も殆ど一緒、鼻の高さがうんぬんという記述もありますが、そんなことは一切ありません。宗教はクリスチャンがほとんどです。ルワンダ人の私が言うんだから。」

…。じゃあ、なんで、あんな、同じルワンダ人同士、痛ましい大量虐殺が起ってしまったんだろう…。

「それは、これこそが悲しいことですが、当時のルワンダには外国からの煽動に打ち勝つまでの人格形成がなされていなかったからだと思います。すなわち、「いい教育」が行われていなかった。だからこそ、これからは、自分の頭で考えるベースをつくる「教育」、特に「基礎教育」が必要だと思います。そのために、私は生涯かけて活動していきます。」

そっか…。でも、でも、たとえ、今から教育の立て直しをしていったとしても、虐殺のトラウマ、憎しみからは、まだまだ抜けれないんじゃないかな…。

「そう。確かに、愛する者を罪なく殺された憎しみは、どうやっても、どうやっても、ぬぐいきれません。牢獄に入った戦犯者の妻たちは、お弁当を刑務所に持っていく度に夫に請い続けたそうです。『私はね、ここまで来るのに、被害者の妻たちからずっと責められてくるのよ!あんたは、本当に、何ていうことをしでかしてくれたの!!きちんと自供して罪をつぐなってくださいな』と。そして、同時に加害者の妻と被害者の妻同士でも話し合いがあったそうです。

もう、憎み合ってもしょうがない。憎みあっても、恨みあっても、涙しか流れない。そうじゃなく、一緒に子供たちを育てよう。これからのルワンダを育てようと。

そして、女性が立ち上がりました


実はルワンダでは、女性の社会進出割合が非常に高く、議会において48%以上を女性が占めていて、これは世界でトップなんですよ。これは、ルワンダ人女性として、とても誇りがもてることです。(参照:ルワンダ大使館

これまでの歴史に縛られるのではなく、これからの未来、子供たちを第一に考える社会や政治にしていこうって、植林したり、ポイ捨てを厳禁にしたり、ルワンダは今、一生懸命頑張って、立ち上がろうとしているんです。その事実も世界はみてほしいなって思っています。」

ちなみに、今のカガメ大統領は汚職対策に力を入れており、他のアフリカ諸国に比して、汚職の少なさ、治安の良さは特筆され、グッドガバナンスの模範国として世銀等からの評価も高い、とのことです。(参照:外務省:ルワンダ共和国)

2011年2月28日月曜日

幕内さんからのコメント

前回のブログで紹介した幕内さんのブログに、私なりのコメントを送信したところ、以下のような返事がありました。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
mi-ma: まさしく、「国際協力、社会貢献」の業界に務めている者です。
幕内さんの言葉を取り入れ、「ご飯」を中心とする生活と考えをするようになってからなのかどうか分かりませんが、実は、私も違和感を感じるようになりまし た。幕内さんの違和感とは、また、異なると思いますが、私とパートナーが感じる違和感について、自分のブログでまとめてみました。

途上国の課題に対する根本的な解決にならない仕組みなんですよね、フェアトレードって。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
幕内さん: その通りだと思います。そして、フェアトレードは大切なことから目を背けさせてしまうようなことにならないか?でも、何となくの違和感です。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

大切なこと。

それは、先進国が暴力的に奪い取った、彼らの主食のことではないでしょうか?

彼らから主食を奪い、「援助」という名前の「先進国からの余剰穀物である小麦」を押しつけ、途上国の深刻な飢餓を誘因したことによる責任から目を背けさせてしまうのに、フェアトレードはとても都合の良い「貿易」なのではないでしょうか?

2011年2月15日火曜日

フェアトレードって?-Sting...all this timeを聞きながら-

先日、幕内さんのブログに「フェアトレード」に関してアップされていました。

社会貢献できるチョコレート?」


幕内さんは、そのブログの中で

▼フェアトレード、社会貢献、寄付付き・・・たぶん、いいことなんだろうと思う。だが、何となく違和感がある。理由なき、違和感です。。。

とつぶやいて、終わっています。


その発言に対して、ある読者から


先生が漠然と感じてらっしゃるのは「免罪符」なのでしょうか?
「寄付もあげるから、チョコ好きでも私たちは悪人じゃない」という、チョコホリックの業というかなんというか・・・・・・。

と、洞察が投げられているのですが、幕内さんは、

たぶん、ちがうと思います。うまく説明できません。すみません。

と、こう、なんだか、もがくように答えていました。


大学の時から、「途上国での国際貢献」や、「社会貢献」にあくがれ、そうして、その夢を仕事として実現し続けている私も、実は、特に、ここ最近、この違和感を感じてきているのです。

フェアトレードに対する理由なき違和感

「俺が感じている違和感は…」

パートナーが少し目を伏せながら、言葉を紡ぎ始めます。

フェアトレードをすることによって、すなわち、正当な価格で取引をすることによって、途上国の現地の収入を少しでも増やしていこうっていうのが、その狙いなんだよね?

すなわち、「相手側にたった」貿易なんだと。

でも、そもそも、途上国での飢餓の原因って、植民地時代に、むりくり、その土地で豊かに実っていた彼らの主食ー穀物類をつぶして、その上に、ばーーってプランテーションをひいて、換金作物をつくっていっちゃって、それで、現地の人々の主食とか、食文化とか、そういったものを暴力的に奪い去ったことなんだったって思うんだよね。

で、そのマインドセットのまま、途上国の人々の暮らしをよくしていくためのアクションとして「その換金作物」に対する「正当取引」をしましょうって、土台からして、なんか、全然、見当違いだと思うんだよね。

なんだろう、、、そこには、持続性も自助的な生産性もみえないんだ。

それに…。

少し、言いにくそうに、一旦目をぎゅっとつぶり、それから、木製の椅子にすとんと座ってから、再び、言葉が流れ出します。

それに、これは、ごめん、単なる俺の感覚だけど、フェアトレードって、なんか、ちょっと、
先進国の単なるマスターベーションのような気がする。

気持ちいいんだろうね。売る人にとっても、そして、高い値段で買う人にとっても。

そんでもって、そこには、「正当な」貿易相手に対する「生活」への思いやりとか共感がないような気がするんだよ。

だから、俺は、違和感を感じる。やっぱり、うまく言えないけど。。。


彼の話をうんうんと聞きながら、ふと、耳を澄ますと、遠くで、ポコポコと土鍋がないていました。


シュンシュンと、白い湯気がたちのぼり、ふんわりとお米の香りが部屋中にたちこめてきます。

あと30分もすれば、美味しいご飯が炊きあがります。

2011年2月11日金曜日

さかな

【飼い方】

時々クリックして餌をあげてください

マウスを近づけると、餌をくれると思って近寄ってきます

2011年1月23日日曜日

これからの、生きる、みち

これまでアップしてきた「レンスウチョウ」

なんとなく、気ままにユルい感じで、揺れ動く気持ちのままに投稿してきたのだけれど

皆さん特にどんな話題に興味をもって、この小さいブログを訪れてくれるのかな、と

やっぱり、なんとなく、ユルい気持ちでこれまでの統計をみてみたんです
(Google Blog、無料のくせに、統計までとってくれているスグレもの!)

これまで、食事、近所の素敵なお店や感動した本の紹介、環境、農のこと、国際協力のことやビジネス系、フィジーやアフリカのことなど、それこそ、揺れ動いては浮き出る気持ちのままにアップしてきたのですが

ダントツで読まれていたもの

それは

ストレスによる病気にかかりやすい行動パターン-「タイプA」とは

でした。もう、ほんと、ダントツ。

なんだか、それを知ったとき、私の中で、あ〜〜、もう、始めないとな、これが、多分、私の生きる道なんだなと、ストンと内蔵に落ちました

医療従事者でも、心理カウンセラーでも、宗教家でもない私には、ココロやカラダの病気を治すことはできない

けれども、多分、この世とこの世の間にひそむ、小さな「ゆらぎ」は見つめることはできる

それは、忙しい生活を送っている人々が「考えるまでもない」と普段見落としている「常識」への「?」だったり、それまで関係ないと思われていた事象と事象のつながりだったり、その人自身のココロの揺らぎが、実は、世界の誰かによる「操作」、だったり、「ホンモノ」って思ってたことが、実は、「幻」だったり

そういうことを、愚直なほどに見つめて、発信することならできる

そして、それについて一緒に悩んで、考えて、この世を裸足で生きていこうと決めました

具体的にどうするか、これから、このブログで少しずつお伝えしたいと思います