2008年10月26日日曜日

幽体離脱

2007年8月下旬の「サイエンス」誌(世界最高峰の科学雑誌の1つ)に幽体離脱に関する科学論文が並んだそうです。
(「ゆらぐ脳」(池谷裕二&木村俊介)より)
(池谷さんの公式HP: http://www.gaya.jp/ikegaya.htm)

「幽体離脱体験方法」
Material&Method

ビデオカメラで実験者の背後を撮影して、その映像を3Dで見れるゴーグルを通してリアルタイムで当人に映像を見せる。

1,2分経過後

その人の体を棒でぽんぽんとたたく

すると、あら不思議。身体から魂が抜け出し、背後から自分を眺めているかのような感覚が現れる・・のだそう・・・。

私的:Discussion
実は、私、「幽体離脱」経験者。経験者というか、なんというか、私にとっての幽体離脱は、思春期ほぼ毎夜の日常エンタメでした・・。
もう、ほんと、目を閉じて意識が遠のいたら最後、ふわりと浮かんでしまって、とほほ状態・・。
(なので、三十路を過ぎた今でも「人間は浮かぶことができる」とほぼ「コモン・センス」として認識しています。一歩間違えれば病院行きです・・)
だから、この現象がサイエンス的に認識されたことはなんだかちょっと「認められた感」があって、うれしい気持ちになりました。

日常的に体感していたからこそ言えると思うのですが、私もこの現象は「超常現象」でも「霊的現象」でも、はたまた「宇宙からの呼びかけ」でもない、ということは感じていました。そして、多分、自分の「脳みそ」で何かが行われれている、ということも理解していました。でも今思うと、その理解があったからこそ狂ってしまわずに日常生活を過ごすことができていたんだと思います。

でも。

「私の知る限り、私にしかこの経験がない」という事は、とても私を不安にさせていました。「霊能力」いうより「私の脳みそに欠陥あるいは腫瘍ができている結果こんな現象が起きているんじゃないか??」という類の不安です。

あれは・・なんだったんだろう・・私の魂がぐわりと引っ張られていく、あの独特の感覚を忘れることはできないほどにリアルだったあの現象は、なんだったんだろう。

池谷さん的:Conclusion
(同本より抜粋)
私は、幽体離脱の「能力」が人に備わっているのはごく当然だと考えています。これは、いわば、第三者からの目から自分を客観的に眺める行為だからです。一般に、外部の視点から自分の性格や行動を顧みて、自身を適正に把握する「客観視力」は、自己開発や自己修正、つまり「成長」には不可欠です。そう考えると、幽体離脱は決して奇怪な現象ではなく、むしろ、社会性を獲得するために重要な脳機能の一面ではないかと私には思えてくるのです。

思春期の頃のあり余るエネルギーは自意識過剰として「だだ漏れ」状態だったし、その上、学校の組織にうまく参加することができずにいて、あの頃は毎日、毎日、その小さな世界から抜け出ることを渇望していたような気がします。
その身体からの強い祈りが、もしかすると脳みそを刺激し、せめて魂だけでもと幽体離脱へ促していたとしたら、なんだかやるせないほどに私自身への愛おしさがあふれ、ちょっと泣けてしまいました・・笑。

2008年10月18日土曜日

「禅と脳」(玄侑宗久、有田秀穂)という本の中で、脳神経学者でセロトニン神経に着目している有田さんが、禅僧の玄侑さんに、
「気」とは何だと思いますか?」
と尋ねています。
「内外ともにコミュニケーションを成り立たせているエネルギーの動きだと思います」
と玄侑さんは答え、その理由をつらつらと話されているのですが、私はふんふんと字面を目で追いながら、昔、東工大の学生だった友人が研究室の教授から聞いたという話をぼんやりと思い出していました。

「君たち一人一人は別の個体、別の個性であるのと同時に、地球エネルギーの循環の一員でもある。それはフィジカルな意味においても、もしかするとメンタルな意味においても。」

気づくと、薄暗いバスの中で、勢いよく流れ込む冷たい風を受けていました。海に落ちて消えた太陽の周辺には、ゆらゆらと淡い紅の残像が揺れていて、少しずつ闇の気配がしてたような気がします。いえ、もう、辺りはすっかり暗くなっていたかもしれません。

とにかく、その日はとても疲れていて、勢いよく走るバスの中、後部座席の一番奥のほうに身を小さくして眠ろうとしていました。大きく揺れるたびにハッとして目が覚め、そのたびに、黒く浮かぶ椰子の葉が窓の外を流れていくのをぼんやりと眺めていました。その向こうには恐ろしいほどに黒く光る海が静かに波をたたせていました。

バスの中にはひとつだけ運転席の横に裸電球がつるされてあって、やっと周りがみえる程度でした。乗客数は数えるほどしかいなく、エンジンの音だけが轟々と響いていました。

なんとはなしに、一番前の座席に並んで座っているフィジアン女性の2人がなにやらボソボソと会話を始めたのが目にとまりました。
彼女らの額の双方から淡くてほんのりと赤い、まるで夕日の残像のような光があふれていて、私は、眠りに落ちながら、ああ、なるほどね、と妙に納得していたような気がします。

本の中では、科学者である有田さんが、腑に落ちない感じで玄侑さんに尋ねています。
「先ほど、【エネルギー】といわれたけれどもコミュニケーションするときにまず重要なのはまず言葉というツールですよね?さらに五感を総動員させるわけでしょ」

「そうですね。ただ、情報として感知するのは、五感以前の器官だろうという気がします。もっと原始的で直接的な形のもの・・。脳でいえば、もっとも原始的な場所、脳幹部にその中心があるような交流というんでしょうかね」

その言葉を受けて、有田さんが閃いたように言葉を繋ぎます。

「実は、セロトニン神経の細胞は脳幹にあるんですよ」

2008年10月9日木曜日

煌々

今夜は月がきれいです。

昔、誰だったか、夏の夜に降りしきる雨の中、その白い絹雨を落とす分厚い雲の頭上には煌々と輝く月が在るといってました。

光は見えなくても、月は在ると。

もう、3年以上も前。私は南の島に住んでいました。

21世紀だというのに、その島にはたくさんの神話や不思議な話が生きていて、時々、話す言葉から白い煙のように浮き出ることもありました。

今夜、なぜか、ウズ、という名前の、まつげの長い女性から聞いた話が思い出されます。

「この島には、不思議な池があって、見るたびに色が変わるの。ある日は海のような青、あるときは血のような赤色、森のような緑のときも、透明なときもあるの。私も何度もみた。色が変わるのを何度も見た。昔、気味悪がった村の長が、池の水を全部汲み取ったこともあるらしいの。一滴残らず。でも、雨も降っていないのに、翌朝にはコンコンと水をたたえていたそうよ。地下水もないはずなんだけどね・・。地下水があれば、こんな水不足はないはずなんだけど・・。その池だけは枯渇しないの。

信じられないでしょう?私も、実際に見るまでは信じられなかった・・」

すべてが真っ白に見えるほどに、言葉すら蒸発してしまいそうなほどに強烈な光がふりそそぐ中で聞くその話は、もうそれだけで本当のことのような気がしていました。

でも、実際に、森を分け入って、その、不思議な池まで連れて行ってくれましが、私にはただの緑色に淀んだ沼にしか見えませんでした。

次の日も、その次の日も見に行きましたが、やっぱり、ただの沼でした。

「普通じゃん、ね~~・・」

そう思って、池に背を向けようとした、そのとき、頭上で鳥の鳴き声と共にバサバサという音がして、数枚の葉っぱがひらひらと揺れながら池の中央に落ちてきました。あ、と声にだそうとしたその瞬間、一筋の光が差し込み、白い埃がその筋の中に浮かび上がり、池に浮かんで揺れる葉っぱを白く照らしだし、私はというと、ただ呆然とその光をみつめていました。

どうしてだかわからないけれど、そのとき煌々と光る何かが確かに見えたような気がしたのです。

2008年10月4日土曜日

「食」について

私は、半ベジタリアンだ。

だからといって、肉一切食べないとか、マクロビオティックとか、ましてはバナナしか食べないとか、そんなことはなく、外食もするし、ジャンクも好きだし、特にモスは月に一回はどうしようもない欲望にかられてバーガーセットを頼んでしまったりもする。

ただ、私、畜産科をでているので、普通の人より、ちょっと、日本とかアメリカとかの畜産状況を知ってしまっていて、正直、今の畜産システムだったら、あんま食べたくないな~ってのが正直なところ。
ちょっと前までBSEとか話題になったけど。・・・私たちの間では、あんまり驚かなかった。あ~~表面化しちゃったね~~てな感覚だった。

だって、牛の生態とか、生き様ってか、そんなの完璧無視した「工業化」が主流なんですもん。

反芻家畜って、草でしょ?食べるのは。だから、草だけ食べても生きていけるように、体もそうなってる。
お腹の中の微生物と共存して、うまくやってる。(詳しくは次回、気が向いたら書きます)

でも。

今の日本は、粗飼料(草とか)と濃厚飼料(それ以外のカロリーとか高いやつ)の割合が3:7って話。(今はもっとひどいかも・・)
そういえば、今の日本の食卓もそうかも。ごはん(穀物)とか野菜とか食べないで、肉とかカロリー高いやつばっか食ってるのと同じかも。もしかすると、無意識でシンクロしてるかも・・。 そっちのほうが体にいい、ダイエットになる、etcとかいう迷信で。

牛に話を戻すと、その上、「肉質が柔らかくなる」っていう理由で、生きてるうちに、わざと、ビタミンAを抜いた栄養状態にしちゃう。
それから、これは特に豚とか鳥に多いんだけど、ぎゅうぎゅう詰めで飼育しているもんだから、病気でもなんでもないのに、抗生剤投与されまくっている。。大量感染することを恐れて。
で、ほとんど目が見えなくなった状態の肥満牛(肥育牛)が薬剤濃縮状態で市場へ売られていく。

はっきり言って、食べたくないですよ。

だから、食べない。
でも、別に人に「食べるな」とも言わない。

だって、「食」って、人格までも左右するほど、本当に根っこの根っこのその人の「基盤」だと思うからだ。
自分の意思でもって、体っていう「もう一個の世界」に、それこそ言葉どおり「Intake」できる唯一のものだと思うからだ。
だから指図も指示もできないし、ぶっちゃげ、「食」でもって他者をコントロールすることすら、ある意味ではできると思う。

でも。

反対からみてみたら、「食」を意識して取り入れることで、その、「もう一つの世界」も自由自在に変えれるし、それは、「生まれ変わる」ってことにもつながると思う。

もし。

何かあって、自分って世界を変えたいって強く願ったとき、食べるってこと、食らうってことに強く意識を向けるのもいいかもしれない。

世界は変わっていくのかもしれない。