2008年11月29日土曜日
「ユタ」~Rasmus Faberを聴きながら
ポルトベールの魔女をようやく読み終わって、ぼんやりと紅茶をすすっていると、なんとなく、あの時なぜ「ユタ」が私を拒んだのか、分かったような気がしてきます。
ユタ。
沖縄での霊媒師のようなものですが、本島のそれと異なる点は(私からみると)、既に死んでいった者たちだけでなく、ここでまだ生きている者たちにも光を与える存在だということ。
ユタに会ってみたい。5年ほど前、そう強く思っていた時期がありました。
宮古島に住む友人にこの話をすると、よく家に来てくれるユタのおばちゃんがいるから、いつでもおいで~~とのこと。
研究生時代にお世話になった琉球大学の先生に挨拶に行く用事もあったので、いい機会だと沖縄本島からさらに宮古島へ飛行機を乗り継いでいくことにしました。
2泊3日。
これだけ時間があれば、大丈夫だろう。
友人もそのユタのおばちゃんに話をしておくと言ってくれているし。
そう、高をくくっていました。
「ごめんっ」
「ん?」
宮古島の飛行場まで迎えに来てくれた友人は私に会うなり謝ってきて、約束していたんだけど、今日から急に沖縄本島に行かなきゃいけない急用ができたらしいと、すまなそうに彼女の不在を伝えてくれました。
「でも、他にユタの知り合いはいるし、電話帳で調べることもできるし、大丈夫だよ」
「そうだね」
私も笑ってそう答えたと思います。
しかし。
別の知り合いのユタも、不在。続いて電話帳か何かで調べたユタなんて、明らかに家の中で暇そうにしているのに、友人が玄関先で声をかけると、忙しい、忙しい、今は見る時間なんてないと門前払いでした。
友人は、相当私を不憫に思ったのか、
「じゃあ、いつなら大丈夫ですか?」
と叫ぶと、こう返事が返ってきたのが私にも聞こえました。
「今日の5時過ぎからだったらね。」
・・・・。私の帰りの飛行機の時間そのものでした。
そのあっきらかな拒絶に、少し、いや、相当イライラしながら、でも、どうして皆してここまで会いたがらないんだろう・・とずっと不思議に思っていました。ユタは求める人たちに光の癒しを与えるんじゃないの?
「ポルトベールの魔女」では、主人公アテナが、そのオカルト的な力を彼女の中心から見つけ出していきます。
踊りの中から彼女の守護神?霊?母神?が憑依してきて、アテナの口を通じて周りの人々の病気や未開拓の潜在能力を言い当て、奇跡を起こします。
その噂を聞いた人々が大勢アテナの周りに集まります。奇跡を見たいという思いで。光の癒しを求めて。
そんな群集にアテナ、あるいは憑依した何かがこう言い放ちます。
「みなさん、もしこの中で、単に本当のことであってほしいと思うこと、例えば、あの人は私を愛してくれてるかどうか、この仕事で大丈夫か、この進路で間違っていないか、などを確かめたくて私のもとを訪れた方がいらっしゃったら、もういらっしゃらないでください。そういう方はダンスをしたり、もっと身体を動かすようにしてください。
みなさんはここに確かな答えを期待してはいけません。昔、未来を予言するために神託に祈りました。しかし、未来は気まぐれです。なぜなら未来は、ここ現在で下される決定によって導かれているからです」
私は、確かに期待していたような気がします。ユタをまるでご神託か占い師のように勘違いし、私のこれからの未来を、それも、輝かしい未来をユタの口から言ってほしいと、確認してほしいと、ずうずうしくも願っていたような気がします。
それにしてもパウロ・コエーリョ。どんどんオカルト路線を突き進んでいる気がします。次作が楽しみでしょうがありません。ブラジル人作家は、ちょっと変な本を書く人が多いかも。ボルヘスもブラジル人じゃなかったかな・・。あ、違った、ブエノスアイレス生まれだった。
そして、私のブログも、日常に潜む光と闇、科学とオカルトをゆらりゆらりと彷徨っていってて、どこへ向かうのか、向かおうとしているのか、なんか、ちょっと。。ちょっと、不安・・。
あ!!「ポルトベール」じゃなくて「ポルトベーロ」だった!!すみません・・
2008年11月22日土曜日
ポルトベールの魔女-パウロ・コエーリョ
「ポルトベールの魔女」を読んでいる途中で、久しぶりに絵を描きたくなりました。
まだ、混沌とした感情の断片しか表れていないけれど、「言葉」でこの感情を断片することなく、敢えて混沌のまま絵を描こうと。
この本の展開の仕方は、玄侑宗久の「リーラ」にとても似ています。
あの本はあまりにエネルギーが外に向かって螺旋を描いていて、もう3年以上も前に一度読んだだけなのに、私の脳みそのひだひだから未だに登場人物がゆらりゆらりと立ち会われてきては私に話しかけてきます。主人公が見た夢までも、私の夢と境なく混ざり合い、記憶は沖縄の畳の部屋に、線香がきつく匂うだろうあの部屋に舞い戻ります。
そして、多分、この本も同じように私の肉体と変わりなく沁みこんでいく予感がします。
2008年11月18日火曜日
富山の五百羅漢の前姿
2008年11月17日月曜日
富山の五百羅漢の後姿
2008年11月15日土曜日
「人はなぜ恋に落ちるのか」~mimaを聴きながら
面白い本を見つけました
人類学者、女性、NZ在住の著者が、「愛」を生み出している感情をさぐるために、 fMRI、すなわち脳内スキャンを使ってその脳内活動を記録して、結果を考察しているものです
「つい最近、激しい恋に落ちた人はいませんか??」
NY州立大学の掲示板にこんなチラシが貼られ、その、「激しい恋」をしている男女の脳内をスキャンする
もう、それを想像するだけで、面白い(笑)
「モラルアニマル」(Robert Wright著)や、「脳が「生きがい」を感じるとき」(Gregory Berns著)に続くヒット作です
でも、なぜ恋に落ちるのか(Why)、落ちたらどうなるのか(How)については進化論やら動物行動学やらも含めて面白い展開を進めているのですが、そもそも「恋」って何だろう(What)については、書かれていないようでした
そもそも「恋」って何だろう
もう、10年以上も昔、そのときとても仲良しだった友人に、真夜中の電話で同じ事を尋ねたことがあります
恋って何なんだろう・・
友人は電話の向こうでしばらく考え、部屋の外では虫の音が聞こえていて、私は電話を持つ手を右から左にかえました
「たとえば」
友人の少しくぐもった声が言葉を紡ぎ始めました
「想像してみて。君は今公園にいる。季節はそうだな~~、緑が水分をたっぷり含んでいる春。天気がよくって、空は透き通っていて、君はベンチで本を読んでいる。ページを一枚、一枚、ゆっくりとめくっていて、ときおり猫が通り過ぎる穏やかな午後の休日
ふと、本から目を離して、あら、と思って右手を宙に浮かべる。穏やかな空気の中に、ほんのりと湿気を含んだ風が君の頬をかすめたような気がしたから。その時、丁度その時、その右手の人差し指に最初の雨粒が一粒落ちるー」
「恋ってこういうことかもしれない。」
私が公園にいることも、ベンチに座っていることも、本を読んでいることも、あらと思って右手を宙に浮かべることも、そこの人差し指に雨粒が落ちていくことも、本当に日常。日常の枠は超えてはいない
だけど。
目線を「私」から空中に飛び、雲の上にまで持っていくと、その瞬間、雨雲をつくって、一番最初の小さな雨粒を私の人差し指に落とすことは、天文学的な偶然の結果起こりえた奇跡かもしれない
日常の隙間に重なっていく偶然と偶然が、互いの脳みそのどこか(本では前頭葉といってますが、私は寧ろもっと原始的な脳幹のような気がします)が発火して恋が始まるー
日常の中のふとした偶然に意味を見出し、そこに物語が見えたときに人は恋に落ちていくのでしょうか
遠藤周作やポールオースターなんかが喜びそうな結論です。
2008年11月12日水曜日
TENDERNESS
2008年11月8日土曜日
「人体の不思議展」の感想-「記憶喪失学」を聴きながら
奇妙な展示会でした。
本物の死体がずらりとならんで、ずらりと並んでるだけでなく、いろんな角度から切り刻まれて展示されていました。
若いカップルや医学生らしき群れや、インテリ風味の紳士や、子供連れのファミリーが、蛍光灯が明るく照らす中で穏やかに、そしてじっくりとそれらを眺めている様子も、やっぱり奇妙でした。
私もその奇妙な集団にすっかり溶け込んで、皮がべらりとはがされて筋肉と内臓だけになった人体や、私の体内にもある女性器がどんな風に下腹部におさまっているのかスライド状になって示されている人体や、顔が水平に3層くらいスライドされている人体や、筋肉が花びらのようにひらりひらりと舞っている人体を、まるで絵画を鑑賞するかのように近づいたり、少し離れたりしながら眺め続け、そして感動のため息なんてついていました。
その一方。
断層された顔の一番上、目や睫毛や鼻腔や唇がついている部位をガラスケースの上からじっとのぞいていると、そこには毛穴が生々しくあって、少しあいた唇の中から数本の前歯が見えていて、そのうちの一本は誰かと殴り合いをしたのか、それともどこかにぶつけたのか、少しだけずれていて、睫毛が長くて、容易に生前の顔が想像できて、顔だけでなく、その性格や人生すらも見えてしまいそうになって、そのうちに奇妙な親近感もわきおこり、そうなると、彼も私たちと同じように目を開けてもいいのに・・とすら思い始めている私もいました。
「彼」の頭のみがそこには展示されていて、しかも水平に3断層に分かれていて、脳みそのしわしわすらも見えているにもかかわらず、です。
「最近、記憶が脳みそだけに存在しているわけじじゃないかもって話あるじゃん」
隣で同じように展示物を見ていた友人の声で我にかえりました。
「女性が心臓移植の手術を受けたらしいんだけど、オペも成功して、無事に退院したらしいのね、でもそれからその人、女の裸の写真とかを見るとムラムラするようになっちゃったらしくって、笑、どうも臓器提供者が「男」だったらしいのよね、笑!!」
女の裸にムラムラとしてしまう可哀相な女性が本当に存在するとしたら、私たちを取り囲むこの展示物たちもそれぞれの「記憶の原型」を秘めているかもしれません。
でも。
その大部分を蓄積しているといわれる脳みそですら、抜け殻になってしまうと、少なくとも単体では、こんな風にころんと転がっているだけで何か重大な意味をもっているとも思えません。
けだるく流れてくる音楽が、煙のようにくすぶりながら部屋の空気をねじまげていきます。
美しい旋律とともに、私の記憶もあやふやになってしまいそうです。
2008年11月3日月曜日
フィジーで紡いだ物語-1
ムシカ
南の島の小さなリゾートで過ごすことを決めて1月が経った。思ったほどに太陽の日差しは私の肌を痛めつけないことが分かってから、もうしばらくここでぼんやりしようと思ったのだ。
この部屋の大きな窓からこれまた大きな椰子の木が見える。夜になると、満ちてはひいてゆく海の音と椰子の葉がかき鳴らす音が重なる。ちゃりんちゃりんと星が落ちてくる音すら聞こえそうな夜を迎えると、どうしてだか、まるで自分が海の底にいるような気持ちになる。一体この感覚は何なのだろうと考えようとする。すると、さっと海岸にうちあげられた様になってしまい、何がなんだか分からないまま眠りに落ちてゆく。そうして、朝になって目が覚める頃には、もう、すっかり真夜中の感覚など忘れている。夢だったのかもしれない。毎晩続く不思議な夢。
夢といえば、今朝に見た夢はあまりにも生々しくて、目が覚めた後もベッドから動くことができなかった。深い記憶が立ち上ってきていて、それが私の体内を煙のようにくすぶり続けていた。だから、しばらくベッドに身を横たえたまま、窓の外の椰子の様子に目を向けていた。風にその葉は揺られ、まるで、何かに向かって手を振っているようにみえた。風のせいなのか、その木は海の方へ奇妙に体をよじらせていた。まっすぐに上に伸びていく体を途中から海の方へ傾けていた。まるで、椰子の木自身が意志を持ってそうしているかのようにみえた。
海が見たかった。しかし、この角度からだと白い砂浜すら見えないので、ようやくベッドから身を起こして、コーヒーをいれた。
嫌な夢。
いつもより濃くいれたコーヒーをすすりながら、窓の外の、時間の流れに沿って色を変え続ける海を眺めた。今は穏やかに深い群青の色をなみなみとたたえている。麻で織られたワンピースに着替えた後、裸足のまま、その椰子の木の下まで歩いてみようかと思った。
足の裏から砂の熱が伝わってくる。サンダルを履いてこなかったことを少し後悔しながら、海の方へたなびくワンピースを右手で押さえ、忍び足をするように踵をあげて椰子が作る影へ向かっていった。あと数歩でたどり着く手前で一度振り返って地球に沿う水平線を見やった。それまでずっと影ばかりを追い続けていたせいか、突然の強烈な光に心地よい眩暈をおぼえた。光は視界中に世界中に広がっていて、思わず目を細めると、きらめく七色の光の束が上から下へ下から上へと飛び交っているように見えた。私の脳みそが捉えた幻覚だったかもしれない。
そして、セセと出会った。
腰かけたその椰子の木の下で流れる汗をハンカチでぬぐっていると、突然空から声がしたのだ。
どうして椰子の木が海に向かっているのか知りたい?
真上の椰子の葉が、ばさばさと音を立てた。右手をかざして上をのぞくと、椰子の葉から光がこぼれ落ちていた。その逆光の影の中に声の主がいた。左手を少し振ってハイと言うと、ちょっと待っててとするりと下りてきた。
セセという名前を持つ体の美しい男の子だった。そうか、筋肉はこんな風に体に現れるのかと、私は不謹慎なほどに、セセの上半身やズボンから伸びた足を見つめた。セセは、少し困ったように笑ってから、横に座っていいかなと言った。
それから2人並んで海が鳴らす音をしばらく聞いていた。セセの気配はまったくなくなっていた。もしかすると私こそが気配をなくしていたのかもしれない。
どうして椰子の木は海へ向かって体をくねらせているのか。考えてみたところで答えなんてでないことは分かっていた。椰子の木が体をくねらす理由なんて、きっと、椰子の木自身も分かっていないのだから。私自身も、私の中で何が起こっていたかなんて、本当に分からなかったのだから。
ふいにセセがもう一度現れた。セセは、私を見ていた。セセの茶色い瞳が私を照らし出した。椰子の葉がわさわさと音をたてた。白い砂の中からヤドカリが出てきたのを目の端で捉えた。
自分の子孫を遠く遠く残すためなんだよ。
セセはそれから海のほうへ視線を投げた。そしてまるで独り言のようにぼそぼそと言葉を紡ぎ始めた。
こんなちっぽけな島だけでなくて、もっと広く子孫を残していくために、自分の実を海に落とそうとするんだ。海が別の世界とリンクしているのを知ってるんだよ、奴らは。だから、あいつらは海の方へ海の方へ体をよじらせるんだ。けなげだろ?知ってるんだよ。すべてを。どうしてだか分かんないけど。
「セセはどうして知っているの?」
あごを膝に乗せて両腕を足首にぐるりとまわした状態で、小さいヤドカリが動く様子を目で追ったままセセの話を聞いていた私は、顔だけをセセの方に向けて尋ねてみた。セセは私をじっと見た。なぜか今度はセセの瞳が深い青色に見えた。まるで、自分が深い深い海の底にいるような気がした。真夜中でのあの感覚を思い出した。
単純な話、椰子は自らの実を海に落として、遠くの国に運んでもらうという伝説がこの島にはあるんだよ。それだけの話。死んだ爺ちゃんが、僕が小さいときに話してくれたんだ。でも・・・・。
「でも?」
本当は島自身がそう願っているのかもしれない。そうやって、伝説は生まれたのかもしれない。もしかすると、僕自身そう思っているのかもしれない。思いたくなんてないけど。
そして、セセは仕事が残っているからと立ち上がった。
私は、立ち上がったときに波打ったセセの背中を眺めてやっぱり美しいと思った。すると、ふいとセセは振り返って、きみもとても美しいよと小さな声で答えた。
波は音を立てて砂を呼ぶ。
そのときに、椰子の木にも呼びかけるのだろうか。ここに海が在ることを知らせるのだろうか。そして、椰子の木はその声のするほうに身をよじらせるのだろうか。自分の子供を海へ託すのだろうか。海へ落ちた椰子の実は、羊水で満ちた胎児のように海を感じるのだろうか。そして、椰子の木だけでなくセセにも呼びかけているのだろうか。それとも、セセが呼びかけているのだろうか。
私の中でも、本当は何かを感じていたのだろうか。見るのでも聴くのでも、ましてや、考えるのでもなく、真夜中の海の底のような世界の沈黙の中で私がそれらの呼吸を感じたように、子宮の中で、心臓の鼓動や血液の流れる音や呼吸の音や細胞がぷちぷちと生まれては死んでいく、そういった振動を感じていたのだろうか。
感じ続けたのだろうか。
今となっては、もう分からない。
波はただ音を立てて砂の色を変える。
椰子の葉はただ、風に揺られて音をかき鳴らす。
私はただ、それらが奏でる音楽、ムシカを聞き続ける。