2008年11月3日月曜日

フィジーで紡いだ物語-1

ムシカ


南の島の小さなリゾートで過ごすことを決めて1月が経った。思ったほどに太陽の日差しは私の肌を痛めつけないことが分かってから、もうしばらくここでぼんやりしようと思ったのだ。


この部屋の大きな窓からこれまた大きな椰子の木が見える。夜になると、満ちてはひいてゆく海の音と椰子の葉がかき鳴らす音が重なる。ちゃりんちゃりんと星が落ちてくる音すら聞こえそうな夜を迎えると、どうしてだか、まるで自分が海の底にいるような気持ちになる。一体この感覚は何なのだろうと考えようとする。すると、さっと海岸にうちあげられた様になってしまい、何がなんだか分からないまま眠りに落ちてゆく。そうして、朝になって目が覚める頃には、もう、すっかり真夜中の感覚など忘れている。夢だったのかもしれない。毎晩続く不思議な夢。


夢といえば、今朝に見た夢はあまりにも生々しくて、目が覚めた後もベッドから動くことができなかった。深い記憶が立ち上ってきていて、それが私の体内を煙のようにくすぶり続けていた。だから、しばらくベッドに身を横たえたまま、窓の外の椰子の様子に目を向けていた。風にその葉は揺られ、まるで、何かに向かって手を振っているようにみえた。風のせいなのか、その木は海の方へ奇妙に体をよじらせていた。まっすぐに上に伸びていく体を途中から海の方へ傾けていた。まるで、椰子の木自身が意志を持ってそうしているかのようにみえた。


海が見たかった。しかし、この角度からだと白い砂浜すら見えないので、ようやくベッドから身を起こして、コーヒーをいれた。


嫌な夢。


いつもより濃くいれたコーヒーをすすりながら、窓の外の、時間の流れに沿って色を変え続ける海を眺めた。今は穏やかに深い群青の色をなみなみとたたえている。麻で織られたワンピースに着替えた後、裸足のまま、その椰子の木の下まで歩いてみようかと思った。


足の裏から砂の熱が伝わってくる。サンダルを履いてこなかったことを少し後悔しながら、海の方へたなびくワンピースを右手で押さえ、忍び足をするように踵をあげて椰子が作る影へ向かっていった。あと数歩でたどり着く手前で一度振り返って地球に沿う水平線を見やった。それまでずっと影ばかりを追い続けていたせいか、突然の強烈な光に心地よい眩暈をおぼえた。光は視界中に世界中に広がっていて、思わず目を細めると、きらめく七色の光の束が上から下へ下から上へと飛び交っているように見えた。私の脳みそが捉えた幻覚だったかもしれない。


そして、セセと出会った。


腰かけたその椰子の木の下で流れる汗をハンカチでぬぐっていると、突然空から声がしたのだ。


どうして椰子の木が海に向かっているのか知りたい?


真上の椰子の葉が、ばさばさと音を立てた。右手をかざして上をのぞくと、椰子の葉から光がこぼれ落ちていた。その逆光の影の中に声の主がいた。左手を少し振ってハイと言うと、ちょっと待っててとするりと下りてきた。


セセという名前を持つ体の美しい男の子だった。そうか、筋肉はこんな風に体に現れるのかと、私は不謹慎なほどに、セセの上半身やズボンから伸びた足を見つめた。セセは、少し困ったように笑ってから、横に座っていいかなと言った。


それから
2人並んで海が鳴らす音をしばらく聞いていた。セセの気配はまったくなくなっていた。もしかすると私こそが気配をなくしていたのかもしれない。


どうして椰子の木は海へ向かって体をくねらせているのか。考えてみたところで答えなんてでないことは分かっていた。椰子の木が体をくねらす理由なんて、きっと、椰子の木自身も分かっていないのだから。私自身も、私の中で何が起こっていたかなんて、本当に分からなかったのだから。


ふいにセセがもう一度現れた。セセは、私を見ていた。セセの茶色い瞳が私を照らし出した。椰子の葉がわさわさと音をたてた。白い砂の中からヤドカリが出てきたのを目の端で捉えた。


自分の子孫を遠く遠く残すためなんだよ。


セセはそれから海のほうへ視線を投げた。そしてまるで独り言のようにぼそぼそと言葉を紡ぎ始めた。

こんなちっぽけな島だけでなくて、もっと広く子孫を残していくために、自分の実を海に落とそうとするんだ。海が別の世界とリンクしているのを知ってるんだよ、奴らは。だから、あいつらは海の方へ海の方へ体をよじらせるんだ。けなげだろ?知ってるんだよ。すべてを。どうしてだか分かんないけど。


「セセはどうして知っているの?」


あごを膝に乗せて両腕を足首にぐるりとまわした状態で、小さいヤドカリが動く様子を目で追ったままセセの話を聞いていた私は、顔だけをセセの方に向けて尋ねてみた。セセは私をじっと見た。なぜか今度はセセの瞳が深い青色に見えた。まるで、自分が深い深い海の底にいるような気がした。真夜中でのあの感覚を思い出した。

単純な話、椰子は自らの実を海に落として、遠くの国に運んでもらうという伝説がこの島にはあるんだよ。それだけの話。死んだ爺ちゃんが、僕が小さいときに話してくれたんだ。でも・・・・。


「でも?」


  本当は島自身がそう願っているのかもしれない。そうやって、伝説は生まれたのかもしれない。もしかすると、僕自身そう思っているのかもしれない。思いたくなんてないけど。


そして、セセは仕事が残っているからと立ち上がった。


私は、立ち上がったときに波打ったセセの背中を眺めてやっぱり美しいと思った。すると、ふいとセセは振り返って、きみもとても美しいよと小さな声で答えた。


波は音を立てて砂を呼ぶ。


そのときに、椰子の木にも呼びかけるのだろうか。ここに海が在ることを知らせるのだろうか。そして、椰子の木はその声のするほうに身をよじらせるのだろうか。自分の子供を海へ託すのだろうか。海へ落ちた椰子の実は、羊水で満ちた胎児のように海を感じるのだろうか。そして、椰子の木だけでなくセセにも呼びかけているのだろうか。それとも、セセが呼びかけているのだろうか。


私の中でも、本当は何かを感じていたのだろうか。見るのでも聴くのでも、ましてや、考えるのでもなく、真夜中の海の底のような世界の沈黙の中で私がそれらの呼吸を感じたように、子宮の中で、心臓の鼓動や血液の流れる音や呼吸の音や細胞がぷちぷちと生まれては死んでいく、そういった振動を感じていたのだろうか。

感じ続けたのだろうか。


今となっては、もう分からない。


波はただ音を立てて砂の色を変える。


椰子の葉はただ、風に揺られて音をかき鳴らす。


私はただ、それらが奏でる音楽、ムシカを聞き続ける。

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