2011年3月27日日曜日

今、放射能より怖いもの— (2)

(前回の続き)

今、私たちに直面している問題は、生活排水だけではありません。
震災後、大量に発生したごみ処理も、また、パンク状態なんです。
↓↓↓
(河北新報より)

工場長も市の環境局も、「できるだけ、ごみを減らしてください!」と呼びかけています。

でも、その声は、今、どれだけの人に届いているのでしょう…。

河北新報の記事にも記載されていますが、震災の影響で、ごみの排出量は昨年同時期の1.5倍とのこと。

この数字は何を意味するのでしょうか。

地震や津波で、壊れたもの、使えなくなったものが大量に発生したから…?

それも、絶対にあると思います。けれど、実感として、それと同時に、加工食品(インスタントラーメン、パン、スナック類 等)からのごみも、通常より多いのではないかと思うんです。

長い列を作って、買い物をして、大量の食料品を両手に下げていく人の袋からは、大量のインスタントラーメンの容器、ヤマ◯キパンの袋が見え隠れしてます。

全体的に、「食べられるだけでもありがたい」「贅沢いう状況じゃない」という風潮ですが、そもそも、そのことと、使い捨て食品の大量消費とは、実感として、つながりがないように感じます。

して、これは何も被災地だけに限ったことでもないんじゃないか、とも思うのです。

これからの生活を考えていく上で、この、「ごみ問題」をヒントにしていくのもいいのではないでしょうか?

ちなみに、我が家は、基本、生ゴミはすべて、堆肥処理、加工食品は「乾物」以外はほとんど購入せず、たまに買っていた魚も、この震災で探すことをあきらめました。納豆、豆腐のパックは、育苗用に使っているので、いわゆる「ごみ」は、ごみ袋「特小」で週に一回出すくらいです。

初めは、ちょいとめんどくさいけど、慣れたら、全然平気です。

特に、生ゴミ堆肥化は、アパートのベランダでも余裕でできるし、まず、生ゴミからの臭いから解消されると思うので、今、本当にオススメです。それで、プランター菜園とかすると、野菜も手に入り、一挙両得です。

今、放射能より怖いもの— (1)

世間では、「ゲンパツ」、「ホウシャセン」が、今、最も怖いもの、恐ろしいものと震えているようです。

福島原発から100キロ圏内に住む私。

今、この地域に差し迫っている恐怖に比べたら、こんな単語なんて、鼻くそみたいなもんです。

その、差し迫っている恐怖とは…。

ウンチが、逆流するかもっっっ!!!
↓↓↓
(宮城県WEBサイト、下水道災害対策本部から)

怖い…怖すぎる…涙。

現在、ネットで入手できる情報↓↓↓
(仙台市WEBサイト/ライフライン情報)

仙台市からの生活排水を処理している施設の1つ、仙台市南蒲生浄化センターの被害状況
↓↓↓
(詳細はこちら)

このサイトに掲載されている写真を見ると、あまりに無惨な様子に言葉を失います。

お風呂なんて、我慢できます。
食器洗いも、そもそも、洗剤使用していないので、楽勝です。
洗濯量も、同じ下着を何日もはき続けることに、何の躊躇もなくなったので(笑)、大丈夫、ちょろいもんです。

ただ…

排泄行為に関してだけは、我が家は何の対策もしていません。

夫も私も、便秘知らずの大量ウンチを毎日トイレに投入…。下水道に相当の負担をかけているはずです。

私たちは、排泄行為すら、何らかの手段を考えないといけないのでしょうか…。

排泄に関しては、カラダの健康や、保健衛生にも関わることですし、避難所では、トイレを我慢してしまって、膀胱炎になってしまった方もいるようです。あるいは、トイレに行くのをできるだけ控えようと、水を飲まない方も出てきているようです。

今の情報量では、正直、分からないです。

だから、来週にでも、直接、仙台の水道局に確認しようと思っています。

この時期だからこそ、きちんとした情報を入手して、
いたずらに不安→いたずらに生活行動を制限→健康に影響
というスパイラルに巻き込まれないよう、冷静に対処していきたいと思っています。

2011年3月26日土曜日

「津波から生き延びた宮城農業高校の牛」—動画入手!!



16PKさんのブログに投稿されている「童話のような、本当の話」
↓↓↓
(「救いたかった命」と「救われた命」)

恐らく、その後の動画です。

そこには、まるで、インドやフィジーみたいに、道路を悠々と歩く牛の姿が!!

良かった…。生き延びたんだね!!
思わず、画面に向かって話しかけてました(笑)

今は、先生たちと楽しく暮らしているそうです。

近々、この先生にお話を伺えたら…と思ってます。

あ〜〜、久しぶりに「泣き笑い」をしちゃいました。

2011年3月23日水曜日

被災地以外の『買い占め』に唖然…

今、日本中で行われているらしい「買い占め」。

被災地ならまだしも、被災地でもなんでもない地域にも「買い占め」が発生していることに、

「なんで???」

と突っ込まずにはいられません。

被災地じゃないでしょ??

食べるのに困ってないんでしょう??

ライフラインは整っているんでしょう???


素朴な疑問と、正直、悲しい気持ちでいっぱいになり、まずは、友人を中心に

「周りで『買い占め』している人がいたらやめるように呼びかけてほしい」

という内容のメールを送信しました。

すると、

俺も含め、周りでは『買い占め』している人はいないけど、見つけたらみっちりお仕置きしておきます!」

など、私の小さなケータイに大きな思いが沢山届きました。

その中で、

「mi-ma、そして、旦那さんのメッセージを私が働いている職場のブログにもアップするよ!」

という思いがけない申し出もありました。
↓↓↓
(友人の働くNPO法人「大地の郷」のブログ)

仙台の町は、「地震って夢だった??」とほっぺたをつねりたくなるくらい、何事もなかったかのように佇んでいます。その中を、人々もまた、何事もなかったかのように歩いています。笑いながら、おしゃべりしながら、仙台を歩いています。

でも、この、歩いている人たちは、全員、一人残らず、あの、死の恐怖を感じました。

一人残らず、死を覚悟するくらいの恐怖を3月11日の午後に感じました。

その経験に耐えて、耐えようと踏んばりながら、今日いちにちを、一日として、生きていっています。


沿岸の地域では、まだ、安否すら確認できていない人がいます。
恐怖どころか、死に至ってしまった人が、私のすぐそばで、たくさん、たくさん、います。

だから、お願いです。

東日本大震災が、今や、日本中を不安に貶めていることは、十分に理解できます。

でも。

ほんのちょっとだけ、冷静に立ち返って、本当に、今の自分にとって必要なコトやモノは何か、今、手に取っているものが明日、本当に必要な物なのかどうか、考えてみて下さい。

どうか、どうか、よろしくお願いします。

2011年3月22日火曜日

水、ガス、電気の節約法ー「癒しの足湯」

プロパンガスの次の補給がいつになるか分からないので、風呂炊きができない。

でも、自動車ではなく、自転車と歩きが日常になった今、疲れた筋肉と汚れた体をお湯でほぐしたい欲求は深まるばかり…。しかも、この間の寒さに比べたら確実に春に近づいているものの、やっぱ、寒いし…。ううぅぅ、つかりたい。。

モンモンと膝をかかえてうずくまっていると、夫が言いました。

「足湯しよっか」

「お!!!」

早速、灯油ストーブで湧かしてあったお湯を洗面器にそそぎ、水で温度を調節します。

間接照明に照らされて、両足がやっと入る洗面器からは白い湯気がたちのぼり、気分も急上昇。

いそいそと靴下をぬいでいると、「ちょっと待ってて」と夫。

洗面器にラベンダーのアロマオイルを数滴たらしてくれました。

この極上足湯につかった時の感想…。言葉に言い表せません…。

2011年3月20日日曜日

災害地から希望のカフェ-「びすた〜り」

昨日、今日と、仙台の町なかを、夫と一緒に歩き回りました。

長町(ながまち)という所に、味のある古い商店街があるのですが、ここにも地震の爪痕が深く残っていました。
道路が陥没していたり、街路樹が斜めに傾いてしまっていたり、古いお家の壁がはがれおちていたり、ガラスが割れ落ちていたりしていて、あぁ…と声を出さずにいられないほどでした。

「当時はもっとひどかったんですよ、道路がぐにゃりと上に突き出ていて、まるでバイクのジャンプ台みたいになってたんです。1mくらい陥没していた場所もあったしね。びっくりするほど急ピッチで復旧作業は進んでいるものの…、もう、資材がないのかな…工事がここ2、3日進んでいないんですよ。」

行きつけのお茶屋さんが早速営業を開始していて、若旦那があったかい緑茶をもてなしながら、あの大地震後の様子を話してくれます。

「もう、ガソリンなくなって、今は自転車で通っているんですけどね、でも、私、31歳からこの店舗に立っているんですけど、こんなに活気ある長町を見たことないんですよ、ああ、こんなに長町には人がいたんだって

ガソリンが手に入らなくなった今、人々は歩いたり、自転車に乗ったりして、近所の商店街に物資を求め、それが、ゴーストタウン化してしまった古い商店街を活気づけているのです。

なんだか、ほんわかした気持ちになって、そのまま歩いていくと、なんと、これまた行きつけのカフェ、「びすた〜り」も営業を開始していました。

(びすた〜りのWEBサイトはこちらをクリック)

「皆さん大変な思いをされているんですから、せめて、ほっと安らげる場所を早く提供したくて」

地震でぐちゃぐちゃになったであろう店内は、一部壁がはがれ落ちているところを除けば、まるで、地震なんて、災害なんてなかったかのよう。

こうしている間にも、光にあふれる店内には、どんどんお客さんが入ってきます。

しばしの癒しと安らぎを求めて。

そして、頼んだ「きんかんハニーティ」の美味しかったこと!

少しずつ、少しずつ、確実に、仙台は復興してきています。

2011年3月19日土曜日

地震から一週間経ちました-今の自粛ムードについて

まだまだ余震が続く仙台。さっきも震度3の揺れがありました。

最近、オバカなことを言ったり、下世話な話をして皆でゲラゲラ笑う回数が増えたように思います。それは、明らかに地震前と比べても多いような気がします。

多分、地震発生して、体力も限界にきてて、ココロもズブズブ沈んでいきそうで、そんな状況だからこそ、オバカなこと言って笑って、元気というかエネルギーを取り戻していってる気がします。

一方、テレビや、特にネット上では、著名人のちょっとした発言や態度に対して、「被災地の方々に対して失礼です!!」とか、「こんな状況の中不謹慎だ!!」とか、怒りを露にしている方々が多いようです。
↓↓↓
(たとえばこちら、幕内さんのブログです)

多分…というか、ほとんどの人、少なくとも正常な精神を保っている被災地の人々は、そんなコメントなんて気にしていませんよ。と、いうか、今の生活でイッパイイッパイで、気にする程のココロの余裕なんて、ないです。

今の、妙な自粛ムード。

なんだか、ちょっと、それすら面白く、こちらでネタにして笑っています。ごめんなさい、笑。

2011年3月17日木曜日

仙台の朝-地震から7日目

地震から明日で一週間になろうとしている。

今朝の仙台は、キーボードを打つ手が震えるほどに寒い。

灯油が使えないこと、ガスを使ってお湯を気軽にだせないことが、とにかくツライ…。

できるだけ、被災地のポジティブなことをこのブログで書こう!

そう思う気持ちが、昨日から完全に萎えてしまっている。

日が経つにつれ、悲惨な実態が露になってくる。

お互いを思いやるココロをもっているはずの日本人も、あまりの大災害に、パニックになりはじめている。

避難所で犯罪が起き始めている…。

買い占めが起き始めている…。

「我」がむき出しになって、ココロにひそむ「鬼」が現れ始めている…。

被爆とか、今、そんなことはどうでもいい。まだ、放射線レベルはCTスキャン程度なんだから。

そんなこととより、この、現れ始めた「鬼」をお互いに消し合うことが先決だ。

そうじゃないと、鬼が鬼を食いちぎることになってしまう。

それこそ、血の色した地獄絵図になってしまう。

2011年3月16日水曜日

仙台の朝-地震から6日目

夜明け前、又、余震があった。

布団から顔をだすと、寒い。

真冬に戻ったように、寒い。

カーテンをあけると、車に雪がつもっている。
今日の仙台は真冬並みになるそうで、風も強く、吹雪くかもしれないとのこと。

…なんで、こんな時に…。

今日から会社に行こうと思っていたけれど、通勤手段が確保できないため、上司に連絡をいれる。

そういえば、地震直後、公園まで避難したときもそうだった。

寒くて、寒くて、こういうときに限って目の前が真っ白になるくらいの雪が舞っていた。

灯油もない中、どうやって過ごせばいいんだろう…。

途方に暮れる6日目の朝だ。

2011年3月15日火曜日

東北広域震災NGOセンター

通常は国際協力NGOとして途上国への支援活動をしているIVY (国際ボランティアセンター山形)。

今回の震災では「国内への支援」として、津波の被害があった名取市を中心に活動を始めたようです。

↓↓↓
(詳しい内容はこちら)

今、現場からみて一番必要としているのは、こういったあったかい食事、あったかく眠れる場所。

IVYさん、やるな〜〜!!NGOは動きが速い!!!

私もあったかい気持ちになりました。


仙台の朝-地震から5日目

明け方、また、地震で目が覚めた。

勤務先の学校で避難生活を送っている方々のお世話のため、パートナーは家に戻らないままだ。

ひとりぽっちの中での余震は、カラダにというより、ココロにつらい。

めっきり冷え込んだ夜明け前、えいと気合いを入れてご飯を炊き始める。みそ汁を作り始める。
いたみ始めたキャベツを丁寧に切る。

頭上では、もう、自衛隊のヘリコプターのプロペラ音がなっている。今日はどこへ救助に向かうのか。向かえるのか。

ガスも電気もいつまでもつか分からない。灯油も使うのを我慢して、服を重ねる。

親戚が髪を洗わせてくれとやってきたので、夕べは4日ぶりにお風呂をたいた。

気持ちいいね、さっぱりするねとお互いにつるつるの顔で笑い合った。

鍋がコトコトいいだした。もうすぐ朝ご飯ができあがる。

パートナーも、もうすぐ自転車で戻ってくるだろう。
ガソリンが手に入らない今、彼の愛車は駐車場に置いたままだ。

…。

ここまで書いて、読み返すと、何だか、戦争時代の小説みたい、笑。

生活は不便で、怖いけど、早くこんな生活終わらせたいんだけど、でも、皆で支え合って、ちょっとしたことにも幸せを感じることができて、なんか、もう、このままでもいいような気がする私もいます。

2011年3月14日月曜日

今回の地震について海外メディアが報じたこと

まだまだ続く余震。

緊急地震速報の軽やかな音楽がラジオの途中で入るたびに、心臓が止まりそうになる。

ラジオやネットからは、壊滅的な情報ばかりが流れている。収まらない火災、原子炉での水素爆発。

もう、いやだ…。

ラジオのスイッチを切り、ネットの電源も切ろうとしたとき、海外メディアが報じた記事が目に入った。
↓↓↓
ベトナムのメディアが報じた記事

皆、ものすごく怖い思いをしたはずなのに、物資がなくて、すごく困っているはずなのに、けんかも略奪行為もなく、冷静に秩序だって行動している姿にメディアは驚きと称賛をもって記事にしていた。

確かに、11日の地震が起きてから今まで、住民が興奮状態になった様子は一度も見なかった。

災害に加え、信号機も「死んでいた」のに、そんな状況の中、車同士も殆どパニックに陥っていなかった。

限定された生活用品を売る商店やスーパーマーケットにも、ガソリンスタンドにも、皆、長蛇の列に並んで、じっと待っていた。目の前で「売り切れ」てしまっても、残念だね、しょうがないねと笑いながら家に帰っていた。

今では数少ない公衆電話にも、バス停にも、じっと、ただ、じっと列に並んで待っていた。そこに、割り込んでいく人の姿は、少なくとも私が見る限りでは、一人もいなかった。

「我」を強調する人は誰一人いなかった。

運良く助かった人たちは、自分の運のよさを、他者への救済にあてていた。

食べ物を持つ人は、持たない人に譲っていた。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
悲惨な映像や報道も事実だ。まぎれもない、今の東北地方の現状。
でも、その悲惨な状況の中で、私たちはお互いに譲り合って、助け合って生きていってる。

生きていこうとしてる。

衝撃的な映像や情報ばかりを垂れ流しにするんではなくって、そうやって日本中を悲しみと絶望に突き落とすんじゃなくって、もっと、そういう、私たち日本人の誇るべき姿を、その教育や文化の高さを、今、伝えたい。

今だからこそ、伝えたい。

2011年3月13日日曜日

生きています!!

東北地区から関東まで襲った巨大地震。

宮城県、仙台市では震度7を記録しましたが、幸運なことに私の自宅は、水道、ガス、そして、今は電気も復旧、こうしてネットを使える状態です。

ご心配をおかけしましたが、私も私の家族も皆無事です。

色々な方々に助けられ、「生きている、そのことが、こんなに貴重でありがたい」とお腹の底から実感しています。

テレビや新聞の報道では壊滅的な映像しか流れていませんが、少なくとも、私の周りは、皆笑顔で子供たちもかけまわって遊んでいます。

明日からはぐちゃぐちゃになった会社の復旧作業と、被災された方々へのお手伝いをしていきたいと思います。

心配してくれている皆さんへ心からの愛と感謝をこめて

mi-ma

追記:通信状態がひどく限定的となっています。落ち着いたらメールや電話をいただいた方に連絡をしますので、どうぞしばらくお待ちください。

2011年3月7日月曜日

マリールイズさんの講演会-2.かみさまは、本当に、いるのかもしれない


ルワンダ内戦による難民キャンプでの地獄のような日々から、日本への避難、そして、今に至るまで、マリールイズさんは、それこそ、「聖書」や「ヨギ伝」にでてきそうな「奇跡」に何度も何度も命を救われます。

すべてにおいて、まるで、かみさまが仕向けたようにしか思えない展開。

まず、それは内戦前から既に始まっています。

マリールイズさんは、当時ルワンダで勤務していた学校に、「たまたま」福島出身の青年海外協力隊が派遣されたことが縁で来日、福島で8ヶ月程度の研修を行います。

「このときにね、80歳のおばあちゃんのいる家にホームステイさせていただくんだけど、そのおばあちゃんがね、それは、厳しく私に日本語を教えてくれてね…。」

しかし、この「厳しいおばあちゃん」からの日本語特訓が、後に彼女の命を救うことになります。

そして、日本での研修が終わり、ルワンダへ帰国。

その後まもなく内戦が勃発、マリールイズ一家も避難のために家を後にします。

「そのとき、どうしてだか、分からないんだけど、たまたま手に取ったハンドバックの中にね、身分証明書は入ってなくて、代わりに、本当ならば空港で没収されるはずのパスポート、そして、日本語とフランス語の辞書が入っていたのよ…。」

もし、身分証明書が入っていたとしたら、「ツチ族」である彼女は間違いなく殺されていたし、もし、パスポートが通常通り空港で没収されていたとしたら、日本へ来ることそのものが不可能だったといいます。

そして、「たまたま」入っていた辞書と、日本での研修で学んだ日本語、そして、日本のホストファミリーからの愛が、螺旋のように奇跡をうみだしていきます。

ルワンダで内戦が勃発したというニュースをみたホストファミリーは、心配のあまり何度もマリールイズさん宅に電話をよこしたそうです。

「1時間ごとに電話をくれたそうだけど、電話をとることができたのは、最初の2日だけ。3日目からは、電話も通じなくなっていました。『もう、ルイズたちは生きていないだろう』と思われていた。

だから、せめて、『私たちは生きています』ということを伝えたかったの。難民キャンプには1カ所だけ太陽光発電の衛星通信があって、そこから日本にファックスを送ろうと思って、おばあちゃんから教わったひらがなで、『わたしたちは、みんな、げんきです、いきています』そして、最後に『たすけてください』と送ったの」

そして、「たまたま」マリールイズさんの後ろに並んでいたのが、「たまたまその日に」難民キャンプでの医療活動にやってきた日本人医師。

マリールイズさんの書くファックスを見て、日本語で話しかけます。

「私たちの通訳になってくれませんか?」

そして、「たまたま」ハンドバックに入っていた辞書の出番がやってくるのです。

地獄のような難民キャンプで、給料をもらい、生きながらえることができるようになるのです。

その上、この医師たちも衛星通信をもっていたので、マリールイズさんは毎日のように日本と連絡をとれるようになります。

その間、福島でも「ルイズ一家を支える会」が立ち上がり、マリールイズ一家を助けるための手続きが進められていきます。

福島を中心に全国からマリールイズさんを日本に呼ぶための資金が集められて、そうして、無事に皆に迎えられて日本へ降り立つことができるのです。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

もし、ここにある「たまたま」が1つでもなかったら、間違いなく、マリールイズさんは、もう、この世にはいなかったと彼女は断言します。

奇跡が次の奇跡をうみ、彼女は、今、日本で、私の目の前で、講演をしている。
そうして、講演終わった後も、私の隣で談笑している。屈託ない笑顔で私に話しかける。

私の現実と彼女の現実がつながり合い、そうして、彼女の経験が、今の活動が、私の現実となってとけ込んでいく。

私の中に、ルワンダの歴史と現実と未来が、彼女の歴史と現実と未来が、言葉も文化も超えてとけ込んでいく。

かみさまは、多分、昔話でもなんでもなく、時々、今でもこんな風に、粋に奇跡の人を見いだしては、私たちに伝え続けているのかもしれない。

生きることについて。




参照:「空を見上げて」
   
(著)カンベンガ・マリールイズ

2011年3月6日日曜日

マリールイズさんの講演会-1.今のルワンダ、これからのルワンダ


2月26日、雪の積もる米沢で「マリールイズさんの講演会」がありました。



マリールイズさんは、ルワンダの人。

あの、痛ましいジェノサイドが起こった悲劇の国の人。

(ルワンダの歴史については、こちらをクリック→「Wikipedia:ルワンダ虐殺」)

そして、福島県で活動を行う「NPO法人 ルワンダの教育を考える会」の理事長。



正直、だから、その虐殺について、悲劇について、胸に痛いダークなお話になるのかと思っていました。


「皆さんは、ルワンダって聞いて、あ〜、あの、民族同士で大量虐殺のあった国だなって、多分、それしか思い浮かばないのではないでしょうか?」

…ぎく。その通りです…。

「確かに、それは、事実です。でも、世界はその事実のみを報道し、ルワンダ人は野蛮な国だと断定します。でも、そのジェノサイドが起ってしまった背景について、歴史について、皆さんはどれだけのことを知っていますか?

ツチ族とフツ族というのは、当時植民地支配をしていたベルギー人が、政治的意図をもって、もともと1つの民族だったルワンダ人を無理矢理分け隔てたということをどれだけの人が知っているでしょうか?」

…え????だって、新聞では、ツチ族とフツ族は全く別の民族で言葉も違ってて、肌の色も違うって、宗教も違うって書いてあったような…

「言葉も一緒、肌の色も殆ど一緒、鼻の高さがうんぬんという記述もありますが、そんなことは一切ありません。宗教はクリスチャンがほとんどです。ルワンダ人の私が言うんだから。」

…。じゃあ、なんで、あんな、同じルワンダ人同士、痛ましい大量虐殺が起ってしまったんだろう…。

「それは、これこそが悲しいことですが、当時のルワンダには外国からの煽動に打ち勝つまでの人格形成がなされていなかったからだと思います。すなわち、「いい教育」が行われていなかった。だからこそ、これからは、自分の頭で考えるベースをつくる「教育」、特に「基礎教育」が必要だと思います。そのために、私は生涯かけて活動していきます。」

そっか…。でも、でも、たとえ、今から教育の立て直しをしていったとしても、虐殺のトラウマ、憎しみからは、まだまだ抜けれないんじゃないかな…。

「そう。確かに、愛する者を罪なく殺された憎しみは、どうやっても、どうやっても、ぬぐいきれません。牢獄に入った戦犯者の妻たちは、お弁当を刑務所に持っていく度に夫に請い続けたそうです。『私はね、ここまで来るのに、被害者の妻たちからずっと責められてくるのよ!あんたは、本当に、何ていうことをしでかしてくれたの!!きちんと自供して罪をつぐなってくださいな』と。そして、同時に加害者の妻と被害者の妻同士でも話し合いがあったそうです。

もう、憎み合ってもしょうがない。憎みあっても、恨みあっても、涙しか流れない。そうじゃなく、一緒に子供たちを育てよう。これからのルワンダを育てようと。

そして、女性が立ち上がりました


実はルワンダでは、女性の社会進出割合が非常に高く、議会において48%以上を女性が占めていて、これは世界でトップなんですよ。これは、ルワンダ人女性として、とても誇りがもてることです。(参照:ルワンダ大使館

これまでの歴史に縛られるのではなく、これからの未来、子供たちを第一に考える社会や政治にしていこうって、植林したり、ポイ捨てを厳禁にしたり、ルワンダは今、一生懸命頑張って、立ち上がろうとしているんです。その事実も世界はみてほしいなって思っています。」

ちなみに、今のカガメ大統領は汚職対策に力を入れており、他のアフリカ諸国に比して、汚職の少なさ、治安の良さは特筆され、グッドガバナンスの模範国として世銀等からの評価も高い、とのことです。(参照:外務省:ルワンダ共和国)