2011年3月7日月曜日

マリールイズさんの講演会-2.かみさまは、本当に、いるのかもしれない


ルワンダ内戦による難民キャンプでの地獄のような日々から、日本への避難、そして、今に至るまで、マリールイズさんは、それこそ、「聖書」や「ヨギ伝」にでてきそうな「奇跡」に何度も何度も命を救われます。

すべてにおいて、まるで、かみさまが仕向けたようにしか思えない展開。

まず、それは内戦前から既に始まっています。

マリールイズさんは、当時ルワンダで勤務していた学校に、「たまたま」福島出身の青年海外協力隊が派遣されたことが縁で来日、福島で8ヶ月程度の研修を行います。

「このときにね、80歳のおばあちゃんのいる家にホームステイさせていただくんだけど、そのおばあちゃんがね、それは、厳しく私に日本語を教えてくれてね…。」

しかし、この「厳しいおばあちゃん」からの日本語特訓が、後に彼女の命を救うことになります。

そして、日本での研修が終わり、ルワンダへ帰国。

その後まもなく内戦が勃発、マリールイズ一家も避難のために家を後にします。

「そのとき、どうしてだか、分からないんだけど、たまたま手に取ったハンドバックの中にね、身分証明書は入ってなくて、代わりに、本当ならば空港で没収されるはずのパスポート、そして、日本語とフランス語の辞書が入っていたのよ…。」

もし、身分証明書が入っていたとしたら、「ツチ族」である彼女は間違いなく殺されていたし、もし、パスポートが通常通り空港で没収されていたとしたら、日本へ来ることそのものが不可能だったといいます。

そして、「たまたま」入っていた辞書と、日本での研修で学んだ日本語、そして、日本のホストファミリーからの愛が、螺旋のように奇跡をうみだしていきます。

ルワンダで内戦が勃発したというニュースをみたホストファミリーは、心配のあまり何度もマリールイズさん宅に電話をよこしたそうです。

「1時間ごとに電話をくれたそうだけど、電話をとることができたのは、最初の2日だけ。3日目からは、電話も通じなくなっていました。『もう、ルイズたちは生きていないだろう』と思われていた。

だから、せめて、『私たちは生きています』ということを伝えたかったの。難民キャンプには1カ所だけ太陽光発電の衛星通信があって、そこから日本にファックスを送ろうと思って、おばあちゃんから教わったひらがなで、『わたしたちは、みんな、げんきです、いきています』そして、最後に『たすけてください』と送ったの」

そして、「たまたま」マリールイズさんの後ろに並んでいたのが、「たまたまその日に」難民キャンプでの医療活動にやってきた日本人医師。

マリールイズさんの書くファックスを見て、日本語で話しかけます。

「私たちの通訳になってくれませんか?」

そして、「たまたま」ハンドバックに入っていた辞書の出番がやってくるのです。

地獄のような難民キャンプで、給料をもらい、生きながらえることができるようになるのです。

その上、この医師たちも衛星通信をもっていたので、マリールイズさんは毎日のように日本と連絡をとれるようになります。

その間、福島でも「ルイズ一家を支える会」が立ち上がり、マリールイズ一家を助けるための手続きが進められていきます。

福島を中心に全国からマリールイズさんを日本に呼ぶための資金が集められて、そうして、無事に皆に迎えられて日本へ降り立つことができるのです。

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もし、ここにある「たまたま」が1つでもなかったら、間違いなく、マリールイズさんは、もう、この世にはいなかったと彼女は断言します。

奇跡が次の奇跡をうみ、彼女は、今、日本で、私の目の前で、講演をしている。
そうして、講演終わった後も、私の隣で談笑している。屈託ない笑顔で私に話しかける。

私の現実と彼女の現実がつながり合い、そうして、彼女の経験が、今の活動が、私の現実となってとけ込んでいく。

私の中に、ルワンダの歴史と現実と未来が、彼女の歴史と現実と未来が、言葉も文化も超えてとけ込んでいく。

かみさまは、多分、昔話でもなんでもなく、時々、今でもこんな風に、粋に奇跡の人を見いだしては、私たちに伝え続けているのかもしれない。

生きることについて。




参照:「空を見上げて」
   
(著)カンベンガ・マリールイズ

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