2011年4月6日水曜日

「津波から生き延びた宮城農業高校の牛」—その続き

畜産学を学び、今の日本の畜産システムに反発する形で日本を飛び出したとき、私は27歳でした。

南太平洋の島国で、ひたすら、放牧牛と熱帯牧草と土壌の試験研究をして、そうして、日本に帰ってきました。

あれから、9年。

不思議な巡り合わせと、ほんの少しの勇気で、あの大災害で牛を逃がした先生と連絡がとれ、実際に当時の話を聞くことができました。

牛好きは、牛好きを呼ぶのでしょうか。

先生と会えたと同時に、偶然が必然となるような巡り合わせで、宮城農業高校の卒業生で、今、被災地への支援を精力的に行っている、パワフルな娘にも出会うことができました。

マイブログリストにも登録したので、チェックして下さい。すごく魅力的な女性です。

彼女は、27歳。

私が日本を飛び出した年で、彼女は、地元で、農業と向き合っていて、地に足ついて生きていて、あっぱれなほどにゲラゲラと気持ちよく笑いながら話を進めてくれて、あぁ素敵な娘だなと、ココロから思いました。

なんだろう。

今回の災害で、今、被災地も、そうでない所も、ものすごいスピードで、人と人とがネットワークを構築していっているような気がしているのです。

それこそ、ありんこの触角みたいに、互いに本能の嗅覚を使って、言葉じゃない、なんだろう、それこそ、「あ、うん」の感性、多分、テレパシーと呼ばれるもの、そういった究極の感性を、今、急速に進化させていってるような気がするんです。

それが、いい、とか、悪い、とか、そういう次元の話でなく、多分、生き残るため、この災害から立ち上がる為、それだけの為に。

そのために、今、私は、宮農の先生と出会い、宮農出身の彼女に出会ったんだと思います。

前回のブログでも紹介した、生き残った牛たち。

先生たちが命をかけて、なぜ、家畜である牛を救おうとしたのか。

実際にお会いした時、この話を小さな絵本にしたいと申し出ると、先生は、こう答えました。

「その絵本には、続きがあります」

え?と思わず、その先生の顔をのぞきこみました。

先生は、まっすぐに私の目を見て、言葉を続けました。

「この続きこそが、本当に私が求めていることなんです。

津波で何もかもがなくなってしまったからこそ、今、奇跡を生み出したいんです」

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